精神科医・中井久夫さんの「自然治癒力と自己尊厳」/28年前に神戸で学んだ真の精神医療/「孤立化」「無力化」「透明化」を防げ
何事も「最初が肝心」といいます。精神医療は問題だらけで腹の立つことばかりですが、それでも私が精神医療を全否定する気にならないのは、最初に出会った精神科医が中井久夫さんだったからです。
中井さんは2022年夏、88歳で亡くなりました。その功績は死後も高く評価されています。そして今も、中井さんから学ぼうとする人が多いことに一縷の望みを感じます。
以下は、医療経営者向け月刊誌「集中 Medical Confidential」(2023月2月号)の連載「精神医療ダークサイド最新事情」に、私が書いた文章です。中井さんと比較すると、あまりにもダメな精神医療従事者が多いので、怒りをぶちまけています。
中井久夫の爪の垢を煎じて飲め!
2022年も多くの著名人が亡くなった。8月8日、88歳で死去した精神科医の中井久夫さんは、28年前、駆け出しの新聞記者だった筆者に精神医療の本質を教えてくれた、筆者にとっての恩人でもある。
1995年1月17日、神戸新聞に勤務していた筆者は、震度7の激震と共に神戸の街に突然投げ出された。古い木造家屋がことごとくつぶれ、その下に多くの人が埋まっている。しかし、数が多過ぎて救助の手が回らない。まもなく長田区では火の手が上がり、がれきの下から這い出せない人たちが次々と焼かれていった。地獄だった。
社会部医療担当遊軍となった筆者は、西は淡路島から東は西宮、尼崎まで被災地を駆け回り、取材を続けた。自宅の被害は軽微だったが、戻る時間はない。トリアージ、クラッシュ症候群、ヘリや船での救急搬送、透析患者支援、倒壊建物のアスベスト対策などなど、阪神淡路大震災は医療の面でも初物尽くしであり、様々な問題や課題が噴出したからだ。
避難所でも悲劇は続いた。高齢者らが寒さによる持病悪化やインフルエンザで次々と死亡していったのだ。筆者は避難所や行政、医療機関の取材をもとにその数を推計し、同様の調査を行っていた神戸の医師と共に、当時は言葉すらなかった「震災関連死」の実態を報告して早急な対策を求めた。高齢者らの避難環境は次第に改善していった。
厳冬を乗り越えると、被災地にも桜が咲いた。「復興」という言葉が瓦礫だらけの街に飛び交い、マスコミは力強く立ち上がる被災住民らの姿を追った。ところがその陰で、「こころ」の問題が深刻化していった。
同年春、筆者は神戸大学医学部精神神経科の医局を訪ねた。その頃に出版された中井さん編著の書籍「1995年1月・神戸─『阪神大震災』下の精神科医たち」(みすず書房)を読み、被災地の医療記者として、これからなすべきことを発見したからだ。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)。その言葉は当時、日本ではほとんど知られていなかった。中井さんは神戸でのPTSDの発生を予想し、その通りになった。私は時間をかけて症例を追い、中井さんから有益な助言や的確なコメントをもらった。そして同年秋、心的外傷をテーマにした特集「大震災─漂流するこころ」を朝刊に24回連載した。
この連載で重視したのは、PTSDを騒ぎ立てることではない。大災害後のストレス反応は回復の一過程で、時間と共に消失すると強調した。PTSDという病的状態に陥った場合でも、一番の薬は周囲の支えであると書いた。今読み返しても恥ずかしくない内容にできたのは、中井さんのおかげだ。
筆者は読売新聞移籍後も医療担当となり、精神医療を多く取り上げた。ところが取材で直面した精神医療の多くは、人と人とのつながりを分断し、過剰な投薬や拘束でエネルギーを削ぎ、人権も自由も自己決定権も奪い、かえって悪化させるシステムだった。そこには、中井さんが重視した「自然治癒力への信頼と自己尊厳の回復」は微塵もない。
そんなものが「精神医療」の看板を掲げて医療費を収奪している。筆者は、精神医療の良心や真の価値を知っているからこそ、その名を語る人間破壊行為への怒りを抑えられない。
中井さんの死後、NHKは番組「100分de名著」の中で、代表的な著書を4回に分けて紹介しました。著書「分裂病と人類」(東京大学出版会)を取り上げた第2回の番組案内にはこう書かれています。
「なぜ統合失調症は世界のどこにおいても人類の1%前後に現れるのか」という問いに対し中井は「人類のために必要だから」という大胆な仮説を打ち出す。例えば大航海時代、孤独な決断によって数々の困難を冷徹に乗り越える船長には天候や空気などの微細な変化・徴候を読み取り次に何が起こるかを予測する能力が必要だった。その能力の基盤は統合失調症の症例と酷似する。かつて人類は誰しもその能力をもっていた。激変する人類史の中で不必要になったその能力が抑圧されることでこの病が生まれたのではないか。中井はこの病をむしろ肯定的に評価する。第二回は、「分裂病と人類」を読み解くことで、「私たちにとって病とは何か」「正常や異常とみなされるものの間に境界はあるのか」といった根源的な問題を深掘りしていく。
また、著書「治療文化論」(岩波現代文庫)を取り上げた第3回の番組紹介には、こう書いてあります。
中井は、永年の臨床体験の中から「個人症候群」という、あるひとりの個人に一回きりしか現れない症候があることを明らかにしたのだ。そのケースでは個人が土着する文脈にこそ治療につながる鍵がある。祈祷や民間療法がはるかに効果を発揮することすらあるのだ。この視点は普遍的な基準のみに依存する近代精神医学への大きなアンチテーゼとなった。第三回は、心のケアにおいて、個人を支えている文化がいかに重要か、それを活かしていくにはどのような方法があるのかを「治療文化論」に学んでいく。
医師が書いた本はとっつきにくいイメージがありますが、文章の達人でもある中井さんの著書は読みやすいものが多くあります。
中井さんの本をまだ読んだことがない人に、最初の一冊として私がお勧めするのは、「いじめのある世界に生きる君たちへ──いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉」(中央公論新社)です。
いじめられている子どもたち向けに、平易な言葉でまとめられた薄い本ですが、中井さんの卓越した人間観察力を十分に感じ取れます。この中で中井さんが提示したいじめの3段階「孤立化」「無力化」「透明化」は、この社会の大人たちが精神疾患の人たち(多くは元いじめられっ子)に加えている犯罪級の仕打ちそのものでもあります。
かつていじめを受け、現在も自己肯定感を持てずにメンタル不調に苦しむ被害者から、彼らが住むグループホームの周りにヘイト旗を平気で立て続ける加害者たちまで、多くの人にぜひ読んで欲しい本です。
