精神科医・樋口輝彦さんの「診療のクオリティを上げる」/一般社団法人運営で患者と向き合う時間を延ばす/毎年のWebセミナーも注目集める

国立精神・神経医療研究センターの理事長・総長を長く務めた精神科医の樋口輝彦さんが、仲間たちと一緒に東京・四谷に六番町メンタルクリニックを開業したのは2015年のことです。防衛医大病院院長などを務めた野村総一郎さん(この連載の初回シリーズに登場)が所長(現在は名誉院長)となりました。

このクリニックには経験豊富な医師たちが在籍し、外来を担当しています。それと共に、診療時間が比較的長いことでも知られています。精神科医は患者の話に15分、20分と耳を傾けても儲けが増えないので(5分以上~30分未満の指定医診察3300円)、5分ちょうどで切り上げる診察が普通(それ以下の場合も)ですが、このクリニックでは必要に応じて長く話を聞いてもらえるのです。私はこうした評判を聞いて、2016年、再診患者とも長時間向き合う野村さんを取材し、読売新聞夕刊に記事を書いたことがあります。

開業から今年で8年。丁寧な診察を続けると赤字が膨らむはずなのに、六番町メンタルクリニックはなぜ存続できているのでしょうか。その秘密を樋口さんが教えてくれました。

「私たちのクリニックは、通常のクリニックのような医療法人ではなく、一般社団法人が運営しています。一般社団法人日本うつ病センターの中に、3つの機能を持たせているのです。診療部門としての六番町メンタルクリニック、精神療法部門としてのカウンセリングセンター、そして、主に企業のメンタルヘルスをサポートする産業メンタルヘルスセンターです。なぜそんなふうにしたのか、ご説明します」

「私は長年、精神科の医療に関わってきましたが、日本の精神科医療は非常に低い医療費で行われており、それゆえの困難な現実に直面してきました。長らく精神科特例というものがあって、医療費は一般医療の3分の1以下に抑えられてきました。医師1人が、入院患者さん48人を担当するという、現実にはありえない状況に置かれてきたのです。これに対して一般診療科では、例えば内科では16人に1人、というふうに精神科とは全然違います。それに伴って、診療報酬も精神科は一般診療科の半分以下や3分の1に抑えられています」

「診療の内容については、個々の医者の資質というか、クオリティもあるわけですが、それと同時に全体としてみると、(経営を成り立たせるためには)それだけ大勢の患者さんを診療しなければいけないので、質がどうしても下がってしまうのです。この仕組みをなんとかしないと診療の質は上がらない。そこで私は、(厚生労働省などの委員会や検討会などにも)いろいろと関わらせていただいたつもりなのですが、なかなか、ちょっとやそっとでは動きません。国は、がん対策にはものすごくお金をつぎ込むのに、精神科医療にはお金をつぎ込もうとしないのです」

「国民のみなさんのコンセンサスを得られないという、このあたりが一番大きな原因かなと思うのですが、このまま手をこまねいてはいられない。今のシステムに乗ってやっているだけでは変わらない。もう少しマシな精神科医療を実現するためにはどうしたらいいのか、仲間たちと考えました。私も歳を重ねましたから、あと10年も生きればおしまいになりそうなので、今なんとかしないといけない。そこで考えたのが、一般社団法人としてクリニックを運営する仕組みだったのです」

「今の診療報酬では、患者さんひとりひとりにしっかり向き合うと採算が合いません。そこで一般社団法人として、一般企業に対するメンタルヘルスサポートなども行う。これは診療以外の部分です。そこで得た収入を、診療の方に回していくやり方をとって、診療の内容やクオリティの向上を目指しています。実際にやってみて、どこまでいっているかというのは、自分たちで評価する話ではないのでなんとも言えませんが、そんなことをやっています」

六番町メンタルクリニックの実績は、この連載の野村さん編を参考にしてください。他の医療機関で多く処方されていた薬が、どんどん減っていく患者が目立っています。適切な精神療法や環境調整の効果ともいえます。樋口さんたちは更に、医師と患者、双方の地理的制約を乗り越えるため、遠隔診療にも積極的に取り組んでいます。

「コロナがこれだけ広がって、それを契機に遠隔診療が行われるようになりました。これには良い点、悪い点があると思うのですが、患者さんがわざわざ出かけて来なくてもいいところは利点です。私たちは、初診は来院していただくことにしているのですが、治療方針が決まった後は、オンラインでも診療が成り立つと思っています。神奈川や新潟など、遠方に住む患者さんの遠隔診療を始めています」

投薬一辺倒ではなく、患者の話にしっかり耳を傾けて回復に導く精神科医の中には、私の取材を受けてくれない人もいます。名前が知られると患者が更に増えて、ひとり当たりに使える時間が減り、診療の質が下がることを恐れるからです。

私は、患者を本当に回復させられる精神科医がプラスの診療報酬を得られる仕組みが、遠くない未来にできることを願っています。そのためには、国民全体がメンタルヘルスの重要性を認識し、知識や理解を深め、適切な精神保健医療福祉の実現のために国が多額の金を投入することを認める必要があります。

ここで言う知識や理解とは、「うつは薬で治る」といった類の製薬会社の身勝手な宣伝文句ではありません。「精神疾患は薬だけでは治らない。様々なケアが必要」という常識を共有する必要があります。そして、こうした知識を子どものころから身に着けるための真のメンタルヘルス教育が欠かせないと思っています。

六番町メンタルクリニックを運営する一般社団法人日本うつ病センターは、樋口さんが名誉理事長、神庭重信さん(九州大学名誉教授、日本精神神経学会前理事長)が理事長を務めています。日本の精神医療の中心にいる医師たちが次々と登場する一般向けの無料セミナーにも長く取り組んでおり、最新の医療情報を知るよい機会になります。

2023年1月から3月までの2022年度Webセミナーは、既に申し込み多数で締め切りとなりましたが、後日、講演の動画と原稿が公開されます。過去のセミナーの動画と原稿は、同センターのWebサイト(https://www.jcptd.jp/index.php)で見ることができます。

KP設立2周年記念シンポジウム「良い精神科医はどこにいる?」で講演する樋口輝彦さん(2022年8月12日、横浜)