電動車椅子ライダー・実方裕二さんの「収容施設を変える」/かながわ共同会に突き付けた原因解明の要望/津久井やまゆり園事件から6年
今年も7月26日が巡ってきます。相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員の植松聖死刑囚が入所者19人を殺害し、入所者と職員計26人に重軽傷を負わせた事件から6年。KP勉強会で話をしてくれたこともある重度脳性麻痺の電動車椅子ライダー・実方裕二さん(以下、ゆうじさん)は、「決して他人事ではない」との思いから、この事件と向き合い続けています。
津久井やまゆり園が建て直され、利用者の一部が戻ってきた2021年8月、ゆうじさんは同施設を運営する社会福祉法人かながわ共同会との初めての話し合いに臨み、「事件の原因解明は運営法人の責任でもある。自らの調査で明らかにして欲しい」と強く要望しました。その理由を、ゆうじさんはこう語ります。
「私は話し合いを持つ前に、かながわ共同会へ公開質問状を送り、『事件が起きてしまった原因は何だと考えますか』と尋ねました。その回答は『植松死刑囚の犯行の原因については、かながわ共同会が明確にできることではない」という驚くべき内容でした。津久井やまゆり園では以前から、職員が利用者を車椅子に縛り付けたり、薬でおとなしくさせたりするなどの虐待行為が行われていました。そうした環境が、元職員の植松死刑囚の歪んだ考えにつながったのではないかと私は思っています。そこで、外部組織に検証を委ねるだけでなく、かながわ共同会も原因としっかり向き合って欲しいと求めたのです」
「元職員が19人もの命を奪ったにも関わらず、運営法人がその原因を明らかにしようとしない姿勢は、ショウガイシャの存在や命の軽視としか思えません。かながわ共同会が、『事件を二度と繰り返さない』と明言するのであれば、どうして起きてしまったのか、自分たちの問題点を自分たちで明らかにして、至らなさや醜さを認めて自覚しなければいけない。そうしないと、自分に甘くなって過ちを繰り返してしまうでしょう。だから、かながわ共同会の回答に対しては、許せないという思いでいっぱいになりました」
ゆうじさんは事件後すぐに、施設運営のあり方にも問題があるのではないかと感じ、「かながわ共同会と向き合わなければいけない」と考えました。しかし、「『かながわ共同会も被害者だ』という世論などの見方に逆らえないまま、手をこまねいているうちに日々が過ぎてしまった」と言います。
その日々の中で、ゆうじさんは「ショウガイシャ虐待」の根本原因について考え続けました。「ショウガイシャ虐待の原因は優生思想だという指摘がよくありました。でも、優生思想という言葉がひとり歩きしているようで、違和感を抱きました。施設での労働環境のキツさも、虐待の原因としてよく挙げられますが、これは俗にいう八つ当たりです。八つ当たり的な虐待は、言語でのコミュニケーションが不得意な人をターゲットにしやすいのです」。
分娩時の事故で生じた脳性麻痺により、頭に浮かんだことを話し言葉として流暢に発することができないゆうじさんは、コミュニケーションの問題にずっと直面してきました。ゆうじさんの言葉は、慣れればある程度聞き取れますが、初対面の人には困難です。そのため悪意はなくても、多くの人は何度も聞き返すのは失礼だと考えて、わかったふりをしてしまいます。こうした「けんじょうしゃ」の姿勢に対して、ゆうじさんは物申してきました。
「私はよく、『言葉は分かるまで何度でも繰り返すので、何度でも聞き直して欲しい。失礼ではなく、その方が私たちも嬉しいのです。理解していないのに、分かったような顔をされる方が屈辱的です』と訴えてきました。この社会では『けんじょうしゃ』の発声が当たり前になっていて、それ以外の言葉や声は異常なものという感覚がまかり通っています。だから、『けんじょうしゃとは違うけど、言葉で会話ができるんだ』と主張しなければ、考えや思いを理解してもらえないのです」
ゆうじさんは、自分の中にある綺麗事では済まない思いに対しても、冷静に向き合ってきました。
「『私の言葉を理解して欲しい』と思う私の中には、コミュニケーションは『言葉を発して行うものだ』という感覚が染みついています。ということは、言葉を自ら発せられない人は、自分の意思を伝えられない人、コミュニケーションができない人、となってしまいます。正直なところ私は、言葉を発することができずに奇声を上げる人に対しては、それだけで驚いてしまい、どうすればいいのか分からず、話せないと決めつけてしまいます。極端な物言いですが、『話せないこと=意思がない』と勝手に受け止めてしまうのです」
「こうした醜い感覚が、私に限らず社会にまん延しています。この社会は、言葉によって支配されているのです。ですから施設職員も、言葉で言い返せない人を捕まえて、『何も言わない、何も考えていないヤツだから、バレることもない』と考えて、その人の思いや気持ちを見ようとしないで、日頃のストレスも相まって、虐待に及ぶのだと思います」
こうした施設の中で虐待は日常化し、当たり前の光景になっていきます。
「虐待が発覚しても、人手不足等を理由に雇用し続けるような運営法人も少なくないと思います。重度ショウガイシャは『手間ばかりかけさせる厄介者』という見方が社会に充満していて、『施設は親や家族の代わりに面倒を見ているのだから、多少のことはしょうがない』と、虐待を容認する人もいます。犠牲になるのは、言葉というコミュニケーション手段が取れない利用者です。嫌だという気持ちをなんとか伝えようとしても、周囲は聞く耳を持たない職員ばかり。だから虐待の手は止まらないのです」
こうした卑劣な虐待環境が、植松死刑囚の考え方に多大な影響を及ぼしたと、ゆうじさんは思っています。だからこそ、この問題と真摯に向き合っているようにはみえない運営法人に対して、怒りが募るのです。
「かながわ共同会は、私との2時間の話し合いの中で終始一貫して、『津久井やまゆり園事件の原因は追及しない、これからを見て欲しい、との無責任な発言を押し通しました。なぜ、事件や虐待の原因を明らかにしないままで、『生まれ変わる』などと言えるのでしょうか。私には、かながわ共同会の自己保身としか思えません。かながわ共同会が、自らの醜さを自覚し、表明することで、虐待が横行している他の施設でも『あれだけの大事件を起こした運営法人が、自らのヒドさや醜さを明らかにしている。自分たちもかなりヤバいことをしている』という危機感が芽生えるはずなのです」
施設から地域へ。精神科病院からの地域移行も含め、この社会のあちこちで、小奇麗な言葉が響いています。しかし、多くは「仏作って魂入れず」的な、形だけの浅い取り組みのようにみえます。地域移行を実のあるものにするには、どうしたらよいのでしょうか。
「かながわ共同会、神奈川県、相模原市が本当に『利用者の目線に立ち、地域移行を推進する』と願うならば、重度ショウガイシャを施設運営などに加えるべきです。そうしなければ、真に利用者本位の生活を作っていくことなどできません」
「私は現在、介助者に入ってもらって一人暮らしを続けています。『介助に入ってもらう』というと、介助者がすべて生活のお膳立てをするというのが一般的なイメージです。しかし、それでは地域生活とは言えません。一つ一つのやり方を介助者と確認し合いながら、生活の方向をショウガイシャが決めていくことが、生活の主人公になるということです。そうでなければ、収容施設の生活と同じになってしまいます」
「残念ながら、収容施設の職員や行政関係の方々の中には、そういう生活をイメージできる人がいないと言っても過言ではないでしょう。そんな状況で『地域移行』と言っても、雲を掴むような話になると思います」
「私としては、かながわ共同会、神奈川県、相模原市などに、私たちが作ってきた生活の仕方や、介助者との関係(互いに影響を受け合える付き合い)を伝え、本当の地域移行を実現するためのより良い方法を一緒に考えていきたいと思っています。収容施設を必要としない世の中に向かうキッカケを、作りたいと考えています」
今日も、東京の三軒茶屋付近で電動車いすをかっ飛ばすゆうじさんの人生は、実に魅力的です。カレーがウリのカフェを運営したり、「言葉でつくる料理人」になったり、ケーキの街頭販売を行ったり、自作の歌をコンサートで熱唱したりして、社会と積極的に関わってきました。その一方で、「自分の心の中の醜さ」と闘い続けてきた人でもあります。ゆうじさんの魅力は後日、改めて紹介したいと思っています。
