精神科医・松本俊彦さんの「ヒトが癒す依存症」/過激発言が起爆剤となったベンゾ対策/覚せい剤依存には罰よりも支援

睡眠薬や抗不安薬として、極めて多く処方されてきたベンゾジアゼピン。その依存性は、日本では長らく軽視されてきましたが、2022年2月、大きな動きがありました。医薬品による重篤副作用の早期発見と早期対応を目的に、厚生労働省が作成している「重篤副作用疾患別対応マニュアル」に、「ベンゾジアゼピン受容体作動薬の治療薬依存」が追加されたのです。

マニュアルは引用文献などを入れても36ページと薄く、内容の更なる充実が求められるものの、ベンゾの処方薬依存が「重篤副作用」に位置付けられたことは、患者を医原病から守るための大きな一歩といえます。

ベンゾは決して魔の薬ではなく、適切に使えば効果が期待できます。ただし、服薬期間が長引くと処方薬依存に陥るリスクが高まるので、欧米では1970年代には注意喚起がされるようになりました。日本でも、その成分は麻薬及び向精神薬取締法の規制対象とされ、慎重な取り扱いが求められてきました。ところが、医療現場での処方の実態はまさにザルでした。無責任な医師たちは、「ずっと飲んでも大丈夫」「昔の睡眠薬と違って依存性はない」などと平気でウソを言って、漫然処方を続けたのです。

2000年代に入ると、精神科を訪れる患者が増えたこともあって処方薬依存の患者が急増。精神科医の中には、患者を処方薬依存にさせることで通院を続けさせ、クリニック経営を安定させようと企む輩も出現しました。

また、漫然処方の結果、ベンゾへの耐性(効きにくくなる)が生じて服薬量が増え、苦しさのあまり過量服薬に至った人たちに「人格障害(パーソナリティ障害)」のレッテルを貼り、原因を全て患者の人格のせいにする精神科医が少なくありませんでした。減薬時に表れる身体不調など離脱症状の苦しみを、「元からあった症状が減薬で表れただけ」と切り捨てられる患者も目立ちました。

こうした不適切な対応や無理解の積み重ねによって、精神科医や精神医療を全否定したり、過度に攻撃的になったりする患者も表れました。そしてますます「人格障害」とされていったのです。このあたりの状況は、私が講談社から出版した「精神医療ダークサイド」や「なぜ、日本の精神医療は暴走するのか」に詳しいので参考にしてください。

精神科医の中にも、他の医師の漫然処方に疑問を抱く人は少なからずいました。しかし、業界内で批判の声を上げるのは勇気がいります。周りの目を気にして、炎天下の屋外でもコロナ対策のマスクを外せないような、病的なほど「みんな同じ」を求める極東の島国ではなおさらです。

処方薬依存の酷い実態を知った私は、2012年から関連記事をキャンペーン的に書き始めました。ですが、医療記者としてのプロではあっても医療のプロではない私が、取材をもとにベンゾの問題を訴えたところで、説得力には限界があります。やはり、精神科医の真っ当な見解が必要なのです。

そんな時に出会ったのが、国立精神・神経医療研究センター薬物依存研究部の精神科医・松本俊彦さんでした。肩書も経験も申し分ない上に、処方薬依存を引き起こす医師側の問題にも躊躇なく切り込んでいました。現在は、素人でも読みやすい依存症関連の本などをたくさん書き、元プロ野球選手・清原和博さんの主治医を務めるなど大活躍ですが、10年前の初対面の時も、ウィットに富んだ話が非常に面白かったのを覚えています。

「精神科医は白衣を着た売人」

ベンゾの漫然処方に警鐘を鳴らすため、松本さんが当時、学会発表などでよく使ったこの言葉に、処方薬依存の被害者たちは拍手喝采を送りました。処方薬依存を認めてもらえず、薬を減らすと襲ってくる離脱症状の苦しみに喘ぎ続けた人たちにとっては、胸のすく言葉だったのです。

しかし、切れ味が鋭すぎるこの言葉は反発も招きました。松本さんは著書「誰がために医師はいる──クスリとヒトの現代論」(みすず書房)にこう書いています。

「いま思えば、強烈すぎるキャッチコピーだったと反省している。私は同業者からの強い反発を買い、出身医局の先輩から叱責を受けたばかりか、同業者からの怒りの電話や手紙が私のもとに寄せられた。当時、私は身の危険を覚え、冗談ではなく、通勤中の山手線の駅のホームでは、できるだけ柱を背にして立つように心がけるほどであった」

業界が触れたくない核心をパンツなしで露出させてしまったがゆえに、大変な思いをされたわけですが、あらゆる声に鈍感な業界に対しては、炎上も覚悟で強烈な言葉をぶちかますことが必要な時もあります。「精神科医は白衣を着た売人」はこの時期、あえて発する意味のあった言葉だと私は思います。

こうした単刀直入で強い言葉には、マスメディアも食いつきます。ただし、医療についての取材経験があまりない記者が取り上げると表層的な記事になり、問題の焦点がぼやけてしまいます。松本さんは同書でこう指摘しています。

「記者たちは一様に、『なぜわが国はかくも薬物療法偏重なのか』という質問をし、私の答えを待たずに、『やはり金儲け主義だからでしょうか』と見当違いの感想を述べた。だが、そうではないのだ」

医療について、それなりに取材経験のある記者であれば、こんな感想は抱きません。ベンゾを大量処方しても、医療機関が得るのは基本的に少額の処方箋料などだけ(薬価差益も期待できない)なので、金儲けはできないのです。これは初歩的な知識ですが、日本のマスメディアの記者は特定分野の専門家が少なく、浅い考察になりがちなのは残念なことです。

ではなぜ、漫然処方が横行するのでしょうか。

「わが国の精神科医療が薬物療法偏重となるのは、薬がもっとも低コストで、しかも時間がかからないからなのだ」

日本の精神医療の質が優れない根本原因は、「薄利多売」という言葉に集約されます。外来で個々の患者の面接に時間をかけていたら、その多くを適切に治したとしても、医療機関は経営危機に陥ります。診療報酬上、患者たちを短時間でさばいて多くの診察を行わないと利益が上がらないからです。

そのため、話をろくに聞かず薬を処方して終わらせるのです。こんなことを続けていると精神科医の面接力は上がらないので、ますます薬一辺倒になります。こうした外来を松本さんはかつて、「夜眠れてるか? 飯食べてるか? 歯磨いたか? じゃ、また来週」で終わる「ドリフ外来」と揶揄したこともあります。

多くの精神科医が加藤茶と化しているのは、国が精神医療にかける金を渋っているからです。ドリフ外来を平気で続けて患者を医原病に陥らせたのに、全て患者のせいにして逃げる精神科医を許すことはできませんが、「患者の話なんて聞いちゃいられない」という精神科にあるまじき構造の背景には、精神医療に対してあまりにもドケチな国の姿勢があるのです。

精神疾患による国内の経済損失は莫大なので、精神医療にもっと金を費やしても元は取れるはずなのに、なぜケチるのでしょうか。精神科病院をまともな医療機関としてではなく、“犯罪者予備軍”の収容所として民間に乱造させ、「安かろう、悪かろう」運営を行わせてきた国ですから、そもそも精神医療の治療効果など信じていないのかもしれません。だとすれば、マンパワーに比較的恵まれた病院が患者をきちんと回復させ、治療実績を明確に示す必要があります。精神医療の有効性をもっと示せれば、国の財布のヒモは緩むはずです。

ベンゾの関連でもう少し補足します。処方薬依存の実態が知られるようになったことで、ベンゾなど向精神薬の処方剤数に診療報酬上の制限がかかるようになりました。今では、ベンゾを1年以上漫然処方したり、何種類も重ねて使ったりすると、処方料や処方箋料が減額される仕組みになっています。

処方剤数制限では、睡眠薬3種類以上、抗不安薬3種類以上、睡眠薬と抗不安薬を合わせて4種類以上、などの処方を行った場合に減額されます。要するに、同じ効果の薬を使うのは最大2種類まで、基本的には1種類だけ使え、という当たり前のお達しなのです。

この制限は、精神科専門医であれば簡単なeラーニングの受講で外せるものの、根拠のない多剤大量処方には明らかにブレーキがかかりました。また2018年度の診療報酬改定では、医師が薬剤師らと連携して向精神薬の減薬に取り組む場合の評価も新設されました。

ところが近年、ベンゾの代わりに抗精神病薬などを睡眠薬として使う処方が目立つようになりました。これは新たな問題を生み出す恐れがあります。松本さんは同書にこう書いています。

「米国では、2006年に、『メディケード』という低所得者・障害者向けの医療保険システムにおいて、ベンゾを医療保険対象薬剤から外すという大胆な制度改革が行われた。しかしその結果は皮肉なものであった。たしかにベンゾの処方は激減したが、その代わりにより高コストな抗うつ薬や抗精神病薬の処方が増えて医療費が増大した。加えて、高齢者の転倒による大腿骨頚部骨折が増加したのだという。こうした事態を受けて、2013年、メディケードは再びベンゾを医療保険の対象に戻している」

「ベンゾは、抗うつ薬や抗精神病薬より、起立性低血圧や薬剤性パーキンソン症候群を引き起こすリスクが圧倒的に低いなど、転倒しやすい高齢者には有用な面もある。悪いのは薬ではなく、使い方なのだ」

タバコを止められず、ニコチン依存を自覚する松本さんは、処方薬や市販薬、覚せい剤や危険ドラッグ、アルコールなど、様々な薬物の依存症患者と診察室で向き合ってきました。アルコール(酒)の飲用は適度であれば有用ですが、依存性があり、様々な事件・事故を誘発させるなど、社会に最も悪影響を与えている依存性物質でもあります。しかし、もはや取り締まれないほど普及している合法薬物なので、日本では酔っ払って少々暴れたくらいではお咎めはありません。

ところが、大麻などの薬物はリラックス目的で少し使用しただけでも、見つかった場合は仕事も功績も人権もはく奪されます。周囲への悪影響はアルコールより少なくても、非合法なことをしたから「許さない」「戒めろ」「懲らしめろ」というわけです。やったこと自体の軽重を問うよりも、「俺たちは律儀に法を守っているのにお前は破った。『ダメ、ゼッタイ』を守れない軟弱者は報いを受けろ」となるのです。患者を通して、こうした釈然としない事態に何度も直面した松本さんは、次のように思うに至ったと同書のあとがきに記しています。

「この世には、よい薬物も悪い薬物もない、あるのはよい使い方と悪い使い方だけ。そして、悪い使い方をする人は、何か他の困りごとがあるのだ」

「こう言い換えてもいい。『困った人』は『困っている人』なのだ、と。だから、国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という『物』に耽溺せざるを得ない、痛みを抱えた『人』への支援こそが必要なのだ」

同じ依存性物質を使用しても、依存症になる人とならない人がいます。使用の目的が「苦痛の緩和」である場合、依存症に陥りやすいと松本さんは指摘します。

それなのにこの国では、覚せい剤などの依存症患者を刑務所に放り込むことで、「改心」させようとしてきました。収監によって更に孤立した患者たちは、出所後ますます追い込まれ、再び薬物に手を出してしまいます。

こうした負の連鎖を断ち切るため、松本さんたちが取り組んだのが、通報よりも医療を優先する治療施設の整備です。医療者と患者との間で、「再使用の欲求」などを素直に打ち明けられる関係を築くことが、孤立を脱する第一歩となります。グループセラピーも有効です。そして様々なトラウマを抱える患者たちは、適度な距離感での良好な人間関係を経験するうちに、回復していきます。こうした治療法の確立に、松本さんや埼玉県立精神医療センター副院長の成瀬暢也さんたちが取り組んできました。

孤立に喘ぎ、何かにすがらないと生きていけない依存症患者たち。特効薬は、罰よりもヒトなのです。松本さんたちの実践は、生きるうえで最も大事なことは何かを教えてくれます。

横浜・上大岡で開催したKP勉強会で講演する松本俊彦さん(2021年10月31日 佐藤光展撮影)