精神科医・張賢徳さんの「うつに殺されないために」②/「理性的な自殺」という虚像との葛藤
イギリスのケンブリッジ大学臨床医学系大学院に留学していた張賢徳さんが、指導教官からの提案もあって、東京で自殺の実態調査を試みたのは1993年から翌年にかけてのことでした。これが、日本初の本格的な心理学的剖検調査となりました。京都大学学生の25年間の自殺を対象に、100例以上の遺族の聴き取りを行った同大学カウンセラー・石井完一郎さんの英語論文が1985年に発表されていましたが、全ての年代を対象とした心理学的剖検調査はまだなかったのです。
このような前例のないチャレンジは、日本では嫌われがちです。しかも、それが自殺についての調査であり、長時間の遺族インタビューが欠かせないとなれば、なおさらです。
1993年当時、日本自殺予防学会は次のような状況だったと、張さんは著書「人はなぜ自殺するのか─心理学的剖検調査から見えてくるもの」(勉誠出版)で振り返っています。
「(同学会の理事のひとりは自著の中で)心理学的剖検に言及し、自殺者の多くが自殺時に何らかの精神疾患に罹患していたという諸外国の結果を紹介していた。しかし、当時の私にとって意外なことに、(参加した同学会の)企画委員会の席では、そのような諸外国の結果に懐疑的である大物精神科医の先生方が少なくなかった。いわゆる理性的な自殺がもっとも多いだろうと考えられていたのである」
専門学会でも、心理学的剖検調査への逆風が吹いていたのです。しかし、こうした日本の状況を知ることで、張さんは調査への意欲が更に高まりました。日本人の自殺は本当に特殊なのか。「理性的な自殺」はそれほど多いものなのか。解き明かす必要性を強く感じたからです。
「まだ30歳前であったという若さと、怖いもの知らず、世間知らずな無謀さがあったが故にとにもかくにもつき進めた」
調査の実現のため動き出すと、すぐに直面したのがプライバシーの問題でした。この調査を、日本全体の状況を反映する精度の高いものにするためには、できるだけ広い地域を対象とし、一定期間内に発生した自殺例を全て調べ上げる必要があります。
そこで、東京都23区で発生した全ての不自然死について、死体検案や解剖を行い、その記録を保存している東京都監察医務院に協力を求めました。しかし、良い返事は得られませんでした。監察医務院の数年間の記録から、自殺とみられる事例を全てピックアップし、件数が多過ぎる場合は無作為抽出を用いながら、連絡先の記載をもとに遺族と接触する、という手順を踏むことができなかったのです。
いくら大事な研究とはいえ、見知らぬ研究者が身内の自殺の件で家に突然連絡をしてきたら、監察医務院の情報管理の在り方に遺族から批判の声が上がるかもしれません。協力に慎重になる姿勢は理解できます。
それでも、張さんは諦めませんでした。当時所属していた帝京大学精神神経科の風祭元主任教授に相談し、監察医務院と再度、粘り強く交渉を重ねました。その結果、次のような次善の策が導き出されました。
「私が所属していた帝京大学の病院にカルテのある故人に関して、その人の情報が医務院にある場合、それらの人を調査対象としてよいということになった。つまり、私が遺族に協力依頼の連絡を取ったとき、『帝京大学病院に残されている記録を見て連絡しました』と言うことになった」
「東京都板橋区の帝京大学病院本院には大きな救命センターがある。そこに運ばれてくる自殺者を全例対象とすることで、(対象の偏りをなくすような理想的な地域調査にはならないものの)周辺地域の自殺の実態に迫ることはできるだろうと考えた。この計画については医務院から了承を得た」
当時の風祭主任教授と冲永荘一総長の支援もあって、この研究は大学の倫理委員会で許可され、実施できることになりました。調査対象は、1991年から93年の3年間に、帝京大学病院の救命センターに運ばれて死亡したケースのうち、自殺とみられる全例。運ばれた時点で死亡していたケースも含みます。自殺かどうかの最終的な判定は救命センターの医師ではなく、監察医が行うので、監察医務院の「死亡様式」の記録と照らし合わせて、自殺か否かを確認していきました。こうして、調査対象93例が浮かび上がり、いよいよ遺族への協力依頼、聴き取り調査へと進むことになりました。
その結果を記す前に、なぜ日本では「理性的な自殺」が多いと考えられていたのか、張さんの考えを中心に紹介しておきます。張さんは、日本の切腹文化の中にある「自殺は責任の取り方」「生き方のひとつ」という捉え方などが、「理性的」「意志的」な自殺が多いというイメージに結び付いたのではないかと指摘します。
西洋文化の根底にあるキリスト教では自殺は禁じられ、自殺が処罰の対象になった時期もありました。張さんによると、自殺者は教会墓地への埋葬を拒否されたり、財産を没収されたり、取り憑いた悪魔を殺すという発想から、心臓に杭を打ち込まれたりすることもあったようです。ただし、聖職者が「精神の異常に基づく自殺」と判断した場合は、処罰を免れることができたそうです。
これに対して日本では、切腹文化のような「自死」への寛容性があるので、「自殺に対する心理的な抵抗感が少なく、理性的な自殺が起こりやすい」という仮説が、支持されやすかったのです。
自殺に関する日本の文化的な特殊性は、フランスの文化人類学者モーリス・パンゲが著書「自死の日本史」(1986年、筑摩書房)で詳しくまとめています。張さんは「読み進んでいくうちに、愛の成就のための心中、その背景にある日本人の運命論的考え方や仏教思想の輪廻転生を知らされ、また戦後知識人の自殺の背景にはニヒリズムが強く働いていたことを知らされる。武士道や儒教的精神に基づく〈意志的な死〉(自己犠牲のための自殺や責任を取るための自殺など)だけでなく、日本人の自殺はすべて〈意志的な死〉なのだと語るパンゲの話法に引き込まれた」といいます。
しかし、パンゲの主張に基づけば、「日本人の自殺はすべて病理性を免れ、文化や国民性という観点から解読されうるもの」ということになります。本当にそうなのでしょうか。第2次世界大戦後の1950年代、日本で急増した若者の自殺についても、パンゲは「殉死」「遅れてきた特攻隊」と説明します。ところがこの時代は、前回ふれたように世界的なドラッグ濫用の時代で、日本も例外ではありませんでした。
「(日本では)1951年には覚醒剤取締法が制定された。しかし、十分な効果が上がらず、1954年の検挙人員は5万5000人を超えるに至った。1954年には罰則が強化され、翌55年には原料に対する規制もなされた。麻薬についても、1953年に麻薬及び向精神薬取締法が制定された。法的な規制に加え、国民的な規模でのドラッグ追放運動も展開されたそうで、1957年にはこれらドラッグの問題が収束に向かう。戦後の若者の自殺激増の時期と、ドラッグ蔓延の時期が見事に一致するのである」
「自殺とドラッグの乱用・依存の関係は実は深い。諸外国の心理学的剖検調査の結果では、自殺者にみられる精神障害として、アルコール・薬物依存の問題がうつ病に次いで多いのである。一般に、薬物の乱用・依存の問題がある人はアルコールの問題も併せ持つことが多い。また、うつ病の合併も多い」
文化や国民性、時代精神が自殺に至る過程に関与することを認めつつも、「多くの自殺は最後に病理性が介在して決行される」という見方は、日本人にもかなり当てはまるのではないか。張さんはそう考えて、遺族への協力依頼を開始しました。
(続く)
