精神科医・張賢徳さんの「うつに殺されないために」①/心理学的剖検で自殺の真相に迫る
私は京浜急行でKP事務所(横浜市磯子区)に通っています。乗車時間は乗り換えを含め片道20数分、距離15㎞に満たない短い区間なのですが、2021年10月から今年3月末までの半年間に、この区間で計9件の人身死亡事故が発生しました。
2月27日には、KPメンバーが乗車していたJR湘南新宿ラインの上り電車が、横浜駅で男性をはねました。このメンバーは、横浜駅に停車した電車からしばらく出られず、乗っていた車両のすぐ真下で、青いビニールシートを広げて事故処理が行われたそうです。
こうした人身事故の中には、不慮の事故もあるかもしれませんが、多くは自殺とみられています。なぜこんなにも自殺が起こるのでしょうか。電車に飛び込めば、たくさんの乗客に迷惑をかけます。その人身事故による足止めで、大事な用事に間に合わず、人生が狂ってしまう人もいるかもしれません。また、飛び込まれた電車の運転士や、事故処理にあたる関係者は、ぬぐい難いトラウマを負わされます。加えて遺族には、莫大な損害賠償が降りかかるかもしれません。周囲に多大なる迷惑をかけてまで、なぜ自殺するのでしょうか。
「人はなぜ自殺するのか」
その問いと、約30年間向き合い続けてきたのが、精神科医で日本自殺予防学会理事長の張賢徳さんです。1993年から94年にかけて、日本で初めて、自殺に関する「心理学的剖検」を行いました。自殺者の遺族のもとを訪ねて生前の様子を詳細に聴き取り、自殺原因を探る調査です。
この調査の内容や、張さんの当時の心境などは、張さんが2006年に上梓した「人はなぜ自殺するのか―心理学的剖検調査から見えてくるもの」(勉誠出版)に詳しく記されています。ただ現在、書店では入手できないので、内容を少し引用しながら要点を紹介していきます(太字が引用部分)。
張さんは1991年に東京大学医学部を卒業し、92年、イギリスのケンブリッジ大学臨床医学系の大学院に留学しました。そこで自殺を研究テーマに選び、精神科医の道を歩むことになったのですが、 その背景には、とても親しかった友人を自殺で亡くしたつらい経験があったようです。
張さんは、ケンブリッジでの研究の過程で心理学的剖検と出会いました。1950年代にアメリカで誕生した自殺の調査方法です。第二次世界大戦が終わって間もないこの時代は、世界的にドラッグ濫用が問題になっていました。心理学的剖検は、そうした時代背景の中で生まれたのです。
「第二次大戦中、軍用に使用されていたこれら(麻薬や覚せい剤など)の薬物が、戦後流出し、薬物濫用のきっかけになったことは想像に難くない。日本もこの時代、ヒロポン濫用が社会問題化した」
この頃のアメリカでは、薬物使用による死亡を「死亡様式」のどこに分類すべきなのか、監察医が頭を悩ませていました。明らかな自然死以外は監察医が判定を行い、「事故死、自殺、他殺」のいずれかに分類する必要がありますが、薬物使用による死亡は、判定が困難なケースが少なくなかったためです。そこで、心理学者シュナイドマンとロサンゼルスの監察医らの共同研究が始まりました。
「彼らは遺族への聞き取り調査を始め、入手可能なあらゆる情報を用いて、故人の人生を再構築するという方法を考案し、心理学的剖検と命名した。剖検とは、死因を同定するために遺体を解剖して検査することだが、それに心理学的という修飾語を冠して、自殺に至るまでの人生を調査するという意味にしたわけである」
この調査の少し前、ワシントン大学精神科のロビンスも、実証主義的な手法によって、自殺の原因を探る調査(自殺者の中に精神障害がどれくらい存在するのかを探る調査)を行いました。
「(ロビンスの調査の)中でも重要な3つの点は、対象の偏りをなくすために調査地域の年間自殺者すべてを対象にしたこと、自殺者に関する情報の質・量を高めるため近親者から聴き取り調査を行ったこと、そして客観性と再現性を重視した精神医学的診断を考案したことである。第2点目は、後に心理学的剖検と呼ばれるようになる。第3点目は、後に精神医学診断の主流を成す操作的診断基準(DSM-5など)の先駆けである」
ロビンスの調査の結果は、次のようなものでした。自殺者の多くが、精神疾患に罹患していたことがわかったのです。
「1956年から57年にかけての1年間にセントルイスで起こった全自殺134例の調査によって、ロビンスの得た結果は、全体の94%が自殺時に何らかの精神障害を有していたというものである。その内訳は、全体の47%がうつ病、25%がアルコール依存症、4%が脳器質性障害、2%が精神分裂病(統合失調症)、1%が薬物依存症、15%が診断不明瞭な精神障害となっている。全体の6%は精神障害ではないことが確認された」
「自殺者の約90%が自殺時に何らかの精神障害を有する状態にあったことは、後に別の地域調査でも繰り返し見出されている」
このようにして、心理学的剖検は欧米での自殺調査の主流となっていきました。自殺した人の近親者との面接では、シュナイドマンは対話の流れにまかせる面接法(自由面接)を取り入れ、ロビンスは構造化面接(あらかじめ面接の細部にわたる項目を作成しておく)を採用しました。
「シュナイドマンの方法は、面接者の技量に負うところが大きく、いわば職人芸である。この場合、予想外に深い情報が得られることもあるが、面接者間の収集情報の差は当然ながら大きくなる。一方、構造化面接の場合は、聴き漏らし事項をなくし、面接者間の情報の質・量を均一に近づけるという大きな利点がある一方、共感の欠落が生む欠点をはらむ危険がある。共感がない面接から得られる情報の質・量の乏しさは、日常の診療でも経験されることだが、自殺者の遺族に対する場合は、その乏しさが顕著になるばかりか、遺族の怒りを招くことにもなりかねない」
「このようなジレンマの妥協的産物は、共感を持った半構造化面接しかないであろう。質問事項はあらかじめ設定しておくが、順不同にし、対話の流れを重視する。現在はこのような半構造化面接が主流である」
留学中の張さんは、こうした調査に刺激を受けて、心理学的剖検に基づく自殺の調査を日本で行うことを決意します。しかし、日本ならではの大きな壁に直面することになりました。
(続く)
