精神医療国賠原告・伊藤時男さんの「さあ、地域に帰ろう」①/16歳でアルコール依存症??
福島県大熊町の双葉病院(福島第一原発事故で閉鎖中)に38年間も閉じ込められた精神医療国家賠償請求訴訟原告・伊藤時男さん(70)は、現在、群馬県太田市で元気に暮らしています。「統合失調症」(当時は精神分裂病)などの診断名で、超長期の隔離収容を強いられた人ですが、温和な性格で危険性の欠片も感じられず、重い精神疾患を抱えているようにも見えません。ですが、もし2011年の原発事故がなければ、今も双葉病院から出られなかったかもしれません。とんでもない国ですね。
伊藤さんは16歳の時、東京の精神科病院に初めて入院させられました。最初に付けられた診断名は、なんと「アルコール依存症」。伊藤さんはこう振り返ります。「いろいろあって、働いていた飲食店の酒を時々飲んでいたのは確かです。でも依存症ではありませんよ」。
母親を早くに亡くした伊藤さんは、継母とウマが合わず孤立を深めていきました。中学1年の時、東北地方の実家を飛び出したものの、上野で補導されて失敗。それでも、「一刻も早く家を出たい」「都会で成功したい」という思いは強まるばかりで、高校1年(15歳)の夏休み、新聞や牛乳の配達で貯めた数万円を手に、再び上京を試みました。
そのSLの車中で出会ったヤクザ風の男から土木の仕事を紹介されたり、原付バイクを使う配達仕事で事故を起こし、無免許運転と年齢詐称(18歳と偽っていた)がばれたりするなど紆余曲折を経て、叔父が川崎で営んでいた飲食店で働くことになりました。
伊藤さんは、そのころの生活をこう振り返ります。
「それは昭和42年の秋ごろのことです。高度経済成長期の入り口で、日本全体が何か沸騰していました。その活気の渦に巻き込まれるように、私は川崎の食堂で懸命に働きました。主にカウンターでのボーイの仕事でした。ウエイトレスが取ってくる注文に応じて、コーヒー、紅茶などの飲み物、さらにチョコレートパフェやクリームソーダなどを作っていました。店はいつも客でごった返していました」
「こうした喧噪をとても心地良く感じました。混沌とした都会が、むしろ自分の精神を安定させていたのかもしれませんね。逆に何もしないでいると、息が詰まりそうになりました」
都会の喧騒が肌に合い、仕事にもやりがいを感じた伊藤さん。同じ食堂でウエイトレスとして働く2歳上の女性を好きになりました。奥手で想いを伝えられなかったものの、まさに青春。ところが、熱が出たため飲んだ風邪薬によって、人生がいきなり暗転します。
「薬が効いて熱が下がると、躁状態に陥りました。気分が異様に弾んで、自制できなくなりました。出鱈目な歌を鼻歌交じりに歌って、誰彼ともなくペラペラと話しまくりました。かと思えば、突然おかしさが込み上げてきて、勤務中に一人高笑いしたのを覚えています」
勢い余って店の酒を口にした伊藤少年に、もう怖いものはありませんでした。好きだったウエイトレスに店内で歩み寄り、告白しました。「俺と結婚してくれないか。一緒になってくれ!」。
当時16歳でしたから、結婚はできないのですが、「ちょっと考えさせて」の思わせぶりな返答に、気分はますます高揚しました。仕事を終えて家に帰ると、将来設計が頭を駆け巡りました。「所帯を持つには経済的にもっと安定させないと」「飲食店経営のノウハウは分かりかけている。いっそのこと自分の店を持つか」「そうだ、上野でスナックをやろう」。
翌日の勤務中も、頭の中はスナック経営のことばかり。「スナックをやるなら、まずペティナイフが必要だな」。休憩時間に川崎駅近くの雑貨屋に走り、3本のペティナイフを購入して店に戻りました。
バラ色の新婚生活が頭に浮かび、ナイフ3本を手にニンマリする伊藤少年。周囲は慌てふためきました。支配人がナイフを取り上げ、叔父に連絡。そして、近くのいくつかの精神科に連れて行かれた後、東京の精神科病院へ。太った中年の精神科医から「今はどんな気分かね」と聞かれ、「酒を飲んで酔っ払っているような気分です」と、高揚した気持ちを酒に例えて答えると、いきなり注射を打たれて意識消失。計40年を超える精神科病院での隔離収容生活が、こうして始まったのです。
(続く)

(2021年10月22日、群馬県太田市の伊藤時男さん宅で撮影