笠陽一郎さんの「波乱万丈の精神科医人生」④問診するたこ焼き屋を開業/狂った精神医療から多くを救い、救われる

画期的な改革を進めた末に、H病院を追われることになった笠陽一郎さんは、なぜ流しのたこ焼き屋を始めたのでしょうか。1978年、当時31歳。精神科医からたこ焼き屋への転身は話のネタとしても抜群で、理由が知りたくなります。

「どこも僕を使ってくれなかったからですよ。『めんどいやつ』という風評が流れたようで。流しのたこ焼き屋だったら、自分が診てきた人の家を全部まわれるでしょ。患者さんのフォローをしていけるし、ずっと付き合っていけるのでね。ホンダのバンを中古で買って真っ赤に塗り、病院を一緒に辞めたPSWの谷本君(現在はNPO法人どんまい理事長)と、すぐに始めました。店の名は地元のスーパー、ハトマートを真似てタコマートにしました」

さすが、転んでもただでは起きない笠陽一郎。しかし、クリニック開業の道はなかったのでしょうか。

「開業は、法律的には医師会の許可は必要ないのですが、田舎では事実上、医師会がNOと言ったら絶対だめですね。診療の連携から何から、いろんなことを締め上げてくるので。例えば、自分が診ている人が急におなかが痛いといっても、他の医療機関がすぐに診てくれないとか。当時は実際にあったんですよ、そういうことが。田舎はそれが通りますからね」

どこの世界にも、陰湿な連中がいます。ところで、たこ焼きの作り方はどこで習ったのでしょうか。

「師匠は患者さんです。『たこ焼きけいちゃん』といって、松山ではなかなか有名でした。たこ焼きなどの粉ものは、混ぜ方がポイントなんですよ。でも僕はうまくできなくて、焼くのも主に谷本君がやっていましたね。僕はもっぱら、口上と〝問診〟でした」

「流しは気楽そうにみえますが、難しいのですよ。道で止まって売り始めると、『ここはだれだれのシマだから、そこの親分さんにきちんと話を通したのか』と、当然来るわけです。了解を得られたら、どこどこのシマでやってもよいとかね。場所を割り振られるんですよ。それを破ったって法律上は自由だけど、ひどい目にあわされますよね」

「僕の患者さんには組長もいたので、そういう人を通して、こことここはかまわないよって。他の場所は止まったらいかんのですよ。流していたらいいんです。止まって売る時は、彼らの許可がいる。保健所は、必要なものを揃えたら認可が下りるんです。食品なんとか法とか、そんなに難しくないです。でも、保健所の人までが『どこそこの組長さんに話を通しておいたほうがいいですよ。あとでややこしくなるから』って言うんですよ」

「一番売れたのが、M病院の運動場前です。自前で作ったタコマートの曲を流して、僕がマイクで『みんな出てこいよーっ』て言うと、『笠先生!』と言いながらみんな出てきてね。焼く間もないくらい売れましたよ。主に精神病院を中心に回っていました。どこに行っても自分の知り合いがいるからね。僕と谷本君のひと月の分け前は、それぞれ30万円近くになりましたよ」

「精神病院の前は、さすがにどこのシマでもなかったですね。『あんな怖い所、わしらはよう行かん』といってね。流しの場合、売る場所が10か所くらいいるんだけど、松山の精神病院は5つか6つしかなかったから、それ以外で売る場所を探すのに苦労しました。でも、なんだかんだでみんな協力してくれて、自分の家の庭とか、場所をかしてくれました。いつも助けてくれるのは患者さんです」

大人気のタコマート。しかし、その伝説の営業期間は9か月ほどに過ぎませんでした。精神科医として働ける職場が見つかったからです。後に「精神科セカンドオピニオン」の舞台ともなる味酒心療内科(当時は味酒内科神経科)です。

「M精神病院で一緒に働いた看護者が口利きをしてくれて、高齢の院長の後釜として有床診療所に拾われたのです。それから35年、そこで働き続けました」

H病院の患者自治会メンバーらが中心となった「精神病」者グループごかいも、1980年5月に味酒心療内科で誕生しました。診療所の5階に集まる互会だから、ごかい。世間から「誤解」を受け続ける人々の会、という意味もあったのかもしれません。

81年秋には、精神疾患ではないのにM病院の隔離室に20年近くも閉じ込められた加藤真一さんの救出作戦に、笠さんとごかいメンバーが挑みます。82年春に解放された加藤さんは、長年の隔離生活で足が弱り、車いす生活が続きましたが、ごかいの仲間たちに囲まれて、以後は平穏に暮らしました。隔離室の窓に野良猫を呼び寄せ、メッセージを括り付けて外部に窮状を伝えた加藤さんの脱出劇は、「精神医療ダークサイド」(講談社現代新書)に詳しく書いていますので、お読みください。

様々な悩みを懐深く受け止めてくれる笠さんのもとには、母校のA高校の生徒たちも受診するようになりました。やがて、受験勉強や親のプレッシャーなどに苦しむ生徒たちのたまり場となっていきました。

「生徒たちがたくさんやってくるようになりました。診察時以外にもね。そしたら、A高校が味酒への出入り禁止令を出したのですよ。『あんな所に行ってはダメだ』と。親に言って連れ戻させたり、それでも味酒に来る子は停学処分にしたり。あまりに腹が立ったので、学校前で、ここでは言えないようなことを書いた抗議のビラ配りもしました。僕はADHDですから、多動性で突っ走りましたね」

「そんなことをやって来たから、僕は母校が大嫌いなんだと思っている人が多いのですが、本当は大好きなんですよ。子どもたちが苦しまなくて済むような、良い学校になって欲しいと願っています」

笠さんはこの頃から、過大なストレスでメンタル不調に悩む子どもたちの身の上に、更なる問題が降りかかりつつあることに、皮膚感覚で気付き始めていたのかもしれません。「子どもたちにも牙をむく精神医療の暴走」という深刻な問題に。しかし、問題の核心部分はまだ見えていませんでした。

「その頃の僕は、振り返ると恥ずかしいくらいものを知らなかったですね。2000年代に入るとインターネットの時代になり、患者さんたちの力になろうとセカンドオピニオンを始めました。やり始めたころは自信満々でしたけど、続けるうちに分かって来たのは、自分の持っている精神医学の知識は全然使い物にならないということでした」

当時はまだ、幻聴や妄想があるとすぐに統合失調症にしてしまう時代でした。「発達障害」という概念は、精神科医の主流派からは見向きもされていませんでした。

「僕も狭い概念で診療していたんです。でも当時は怖いもの知らずで、インターネットでセカンドオピニオン的なことを発信していると、家族を不適切な精神医療のせいで亡くした技術者の男性が誘ってくれて、2005年に『精神科セカンドオピニオン』というページをやりだしました。僕は、そこの掲示板でのやり取りなどを通して、みんなを救えると思っていました。しかし、恥ずかしながら逆でしたね。患者さんやご家族とのやり取りの中で、僕の方が多くを教えられた。そして、発達障害というものの存在に気づいていったんです」

様々な感覚の過敏性があり、強いストレスを受け続けると幻聴や妄想が一時的に表れることもある発達障害。「狭い概念の診療」では、そのような人たちに一律に「統合失調症」のレッテルを張り、「一生治らない病気」「薬を飲まないと大変なことになる」と決めつけて、終生に渡る薬物治療でコントロールしようとしてきました。しかしその中には、軽い発達障害がベースにある人が多く含まれていたのです。その人たちは、過大なストレスやトラウマの苦痛を取り除けば、症状が収まったはずなのです。

「発達障害を視野に入れた精神科セカンドオピニオンを始めると、神田橋條治さん(注釈 鹿児島のカリスマ精神科医。言動や治療法が独特なので専門家の評価は分かれるが、発達障害と精神症状との関係にいち早く注目していた)からアドバイスをいただけるようになりました。神田橋さんのもとで学ぶ若い精神科医が、神田橋さんのメッセージを伝えに味酒に来てくれたこともありました。半分は褒めてくれたけれど、もっと発達障害のことを広めろとか、もっと漢方を勉強しろとか、いろんなことを伝えてくれました」

軽い発達障害がベースにある人は、薬への過敏性もあることが多く、向精神薬の副作用が出やすくなります。ところが多くの精神科医たちは、副作用で強まった症状を「病状悪化」と解釈し、ますます薬を増やす破壊的な投薬を続けていました。そうした処方は子どもにも及び、よだれを垂らして動けなくなったり、便を垂れ流してオムツが外せなくなったり、といった悲惨な例が相次ぎました。こうした情報が、患者や家族からインターネットを介して、笠さんのもとに次々と入るようになりました。そして、狂った精神医療から患者を守るための戦いが始まりました。

「子どもの例でいうと、東京などの都市部がとくに酷かったですね。東京都立梅ヶ丘病院で薬漬けにされた子どもたちが、次々と味酒にやって来ました。あの病院には当時も『発達障害の専門家』を名乗る医師がいたはずですが、やることは薬漬けでした。入院中の子は外泊を取って、家族と一緒に飛行機に乗ってやって来ました。13、4歳の子どもが、オムツをして来るんですよ。本当に酷かった」

「あの時代の10代の子どもたちは、今は30代になって、医者になったり、心理士になったり、医療職についている人がたくさんいます。そういう人たちは、『統合失調症』にされていたのだけど、減薬や断薬がうまくいって、環境調整などもして、元気を取り戻しました。でも、5年、10年と過剰な薬を飲まされてしまった人の中には、薬を抜け切れなくて苦しむ人もいます。ここに来た子どもの多くは、飲んで1、2年だったから抜いて元気になったのですが。本当に辛いケースばかり見てきましたよ」

笠さんと患者、家族たちは、こうした深刻な状況や体験談をインターネットや本などで発信していきました。私が笠さん編集の本「精神科セカンドオピニオン」と出会ったのも、この頃でした。そして精神科業界も、発達障害や統合失調症の過剰診断に目を向けざるを得なくなっていきました。

今では逆に、発達障害の過剰診断が問題になるほどです。わずか10数年で、精神科診療の中身はだいぶ変わったのです。では「良くなったのか」といえば、なかなかそうも言い切れないのですが。

メンタルヘルスの不調は、子どもの頃の家庭環境が原因のひとつになることがよくあります。それは、傍から見ると平和そうな家庭でも起こります。

「こういうことを言うと誤解されるかもしれませんが、発達障害の子どもの親って、発達障害のことが多いのですよ。だから親子でコミュニケーションをとるにも、全部嚙み合っていないんです。お互いに誤認があるから、取り違えて、誤解してぶつかるんです。わざわざ、ぶつかりたいわけではないんです。それの積み重ねですよね。そこに親のアルコール依存症などが重なると、なおさらこじれるわけです。ADHDな僕は、親と決別しましたよ。一緒にいると殺されると思って」

笠さんは高校生の頃、記者にあこがれて早稲田大学の政経学部を受験しようとしました。ところが親や親戚にバレて、強制的に医学部を受験させられたそうです。なぜなら、笠家は江戸時代から続く医家で、笠さんは13代目になることを宿命づけられていたからです。メジャーな診療科ではない精神科を選んだ背景には、家への反発があったのかもしれません。

「親子の話って凄まじいものがいっぱいありますよ。親が姿を消すしかないとか。住所を変えて身を隠すケースがいくつもあるんですよ。見つかったら半殺しに遭うので、僕が逃走を手助けするんです。親はもうヨレヨレなのにね。そんなになっても復讐したいんですね。落とし前がつかないんですよ。過剰なこだわりというやつが、そこにあるとね。僕のようにクジラグッズを集めるくらいならいいんですけど、人によってこだわる場所は違うから」

笠さんは、患者を守るためなら巨大な宗教団体にも立ち向かいます。

「ある宗教団体と僕は、この街でかなりややこしいですよ。患者さんが騙されて、仏壇を買わされるんですね。すると症状がこじれて幻聴が聞こえたり、怖いんですよ。仏壇が部屋にあるだけで。朝はちゃんと勤行して、それを守らなかったらまた怖いんですよ。だから、売りつけられた仏壇を全部燃やして歩きました。当然、会員がうちに押し寄せてきてね。本当に不倶戴天の敵ですよ。僕はどことも揉めてます」

笠さんは一時、持病の悪化で診療できない状態でしたが、見事に復活しました。しいのき心療内科で外来診療を行い、今年4月にはブログも再開しました。

「1日40人から50人診ていて、現役ばりばりですよ。子どもの患者さんも多いです。相変わらず口は衰えていません。でも、恥を知りはじめましたね。前はちょっと自慢みたいなところもあって、本当に恥ずかしいんだけど、相当打ちのめされたんですよ。やっぱり未熟というかね」

「セカンドオピニオンをしていたら、色んなことが分かります。僕が診ている人が、よそで僕のことをどのように不満で、苦しんでいるかということも聞こえてくるわけですよ。そういう恐れは絶対持っていないとね。自信満々の時は危ういですね。自信がなくなった今の方が、安心しだしましたね。なんか、戸惑いがいつもあってオタオタする老人になったので」

クリニックが休みの日は、ずっとこだわってきた往診も続けています。

「往診に行くと患者さんのことがよく分かりますから。僕の方から行かせてくれと言って、行く方が多かったですね。往診料は生涯一度も取ったことがないです。ボランティアみたいなものです」

「でも最近は脚が悪くなって、段差がある家はきつくなってきました。2階にあがってくださいと言われても、できないようになってきました。車の運転も、視力低下で厳しくなってきた。往診が好きで仕方なかったのに、そろそろ潮時かな」

仮に往診ができなくなっても、患者たちに学びながら熟成を重ねた笠さんの力は、これまで以上に求められています。KPでは、その力を生かすイベントを考えています。

最後にひとつ、質問しました。なぜクジラが好きなのか。

「昔あった大洋ホエールズという球団が好きだったんですよ。優勝したこともありましたが、ほとんどBクラスで、弱くてね。そういう弱いところが好きでしたね。そんなことからクジラグッズを買うようになって、クジラに興味を持ち始めたんです」

「僕は典型的な狭量男です。ストライクゾーンが狭いのです。なんでも白か黒か、正義か悪か。だから、清濁併せ呑む(何でも呑み込む)クジラの寛容さに憧れるんです」

笠クジラの波乱万丈の航海は続きます。

笠陽一郎さんと「精神病」者グループごかいのメンバーたち(社会評論社「わしらの街じゃあ!」より)