笠陽一郎さんの「波乱万丈の精神科医人生」③ 「今夜は眠剤なしで無礼講じゃあ!」/入院患者総動員で鉄格子破壊/患者が自由にカルテ記入

2年半いたМ病院を離れ、知り合いの紹介でH病院に移った精神科医の笠陽一郎さん。約200床ほどのH病院の印象を、こう振り返ります。

「驚くことに医者が院長しかいなくて、ほとんどのことを看護が仕切っていました。患者さんの自由は全くなかった。それでも、神戸で見たどの病院や、М病院よりも、まだマシでした。明らかに病気でない人まで入れられていることはなかったし、看護者によるリンチもなかったし、変死もなかったからです」

「院長は温厚な人格者で、何を考えていたのかわからんような人物でした。それで、男子病棟、女子病棟、老人病棟とある中で、男子病棟はやりたいようにさせてもらう、という一文を院長に取り付けました。そして保護室にずっと寝泊まりして、全ての慣行を洗い直しました。そうこうするうちに、若い看護の中から同調者が出始め、患者さんたちの本音もたくさん聞こえてくるようになりました。ある夜、『詰所の格子や扉は要らんぞな』という声が上がり、『それでは壊してしまえ!』となったのです」

「早速、大工道具一式を持ち出して、あっという間に詰所を解体してしまいました。続いて、入院患者さんたちを動員して、『今夜は眠剤無しで無礼講じゃあ!』と、病棟の鉄格子を夜通し切りまくりました。患者さんの中には、大工やペンキ屋や建具職人もいたから、仕事はすばらしく迅速でした。朝、出勤してきた職員が、一夜でのあまりの変わりように口を開けたまま動けないこともありました。そうやって、あちこちの鉄格子を全て取り去り、詰所を誰でも自由に入れるサロンに変えるのに、1か月とかかりませんでした」

「金銭の自主管理、たばことライターの自由、外出の自由、毎日風呂に入る自由、おしめの洗濯や風呂洗いや院内の清掃は職員がやること。こんな当たり前のことも、ひとつひとつ勝ち取っていきました。更に、白衣を廃止し、電気ショックを廃止し、作業療法と言う名のタダ働きを廃止しました。やがて家族会ができ、患者自治会ができ、院内喫茶が彼らによって運営されるようになりました」

笠さんの破天荒な改革で、H病院は大変な注目を集めるようになりました。外来を含む患者は増える一方で、改革の追い風となりました。

「医者から看護まで、全員が白衣を着ないことを進めた時には、抵抗がありました。看護の人たちは、自分たちのアイデンティティは白衣だと、そんなことを言っていましたね。でも、医療側とむこう側の垣根をどう取るか、ということを考えたんです。そして詰所も鉄格子も全部なくして、デイルームでオープンに申し送りをするようになって、患者さんたちは自分のことがどう話されるのか、一生懸命聞くようになりました。看護者の観察や評価に対して、異論や反論が飛び出して、そこがにわかミーティングの場になっていった。そして、いっそのこと全員で毎朝ミーティングをやろうということになりました」

「カルテもオープンな場所に並べて、自分のカルテを自由に読み、書いていいことにしました。ついには、僕や看護の分も作って、同じ所に並べました。患者さんたちが、職員の性格や『病状』をカルテに記載していくのです。カルテというのは本来、医者が記入した後は誰も見ないんですね。それをオープンにすることで、医者も看護も患者も、書いたことに責任を持つようになりました。もちろん、落書きのような批判や悪口もありましたが、互いの理解につながることの方が多かったです」

「カルテに患者が書き込むことは、いけないことではありません。医者の記録さえどこかにあれば、その間の行間を誰がどう書こうが問題ありません。当時は、治療共同体というのを千葉の海上寮療養所と、広島の西城病院と、群馬の三枚橋病院の3つが競っていました。それを見学しに行ったりして、いいとこ取りしました。そうした病院でもヒエラルキーをなくそうという動きはあったのですが、実際は行動していないのでね。だから、それをうちでしようと」

「全員ミーティングでは、司会を患者自治会がやりました。三枚橋では医者が司会をやっていて、それはおかしいと思った。とにかく患者が全体を仕切って、みんなが対等に議論する形にしました。それが機能している時は面白かった。誰かの退院が近づくと、『巡回の時はおとなしいですが、今も独り言が多いですよ』なんて告げ口が始まるんです。そういう意見が飛び交うのですが、全部オープンにやったのです。それによる揉め事もありましたが、オープンにすることでうまくいきました」

入院患者を対象としたこの取り組みは、笠陽一郎式『開かれた対話』(オープンダイアローグ)と名付けたくなるほど画期的なものです。個人情報保護にうるさい現在では、再現は困難と思われますが、病院内のヒエラルキーを取り払い、患者の言葉や意思を多くの人が共有、尊重するという意味でも、フィンランドのオープンダイアローグとの共通点を感じます。

「その頃はやることなすこと面白くてね。色々なアクシデントもあったけれど、家に帰る気がしなくて、ずっと保護室に泊まっていました」

しかし、急激な改革に対する古株の抵抗は強まっていきました。

若い看護はノリに乗ったけれど、古い看護の人たちは、自分たちは世話する側で向こう側は世話される側、という力関係を維持したくてたまらないわけです。入院患者の中には、意見を声高に主張する人間もどんどん出てきた。普通にフリーでディスカッションし始めると、入院患者は元教師とか大学生とかインテリもいるわけですよ。当時の看護の連中は議論で勝てないので、そんなのやりにくいよね。彼らは上からマウントしてないと、仕事がやりにくかったと思う。相手にする患者さんの多くは人生の先輩なわけだから、向こうから教えてもらって学べばいいという発想があったんだけど、やっぱりそういう発想は持っていなかったですね」

鉄格子を取り払い、外出の自由や退院促進を進めたことによる弊害も生じてきました。入院患者が自殺してしまったのです。

「Aさんは、病院改革によって20年ぶりに外に出ることができました。ところが信号の意味がわからなくて、すぐ近くの店に行きたいのに道を渡れず、戻って来てしまった。『自分はえらい浦島太郎になってしまった』『もう世の中には戻れない』と落ち込み、間もなく、鉄格子を取り去った病棟の窓から飛び降りて、亡くなってしまったのです。他にも2人が自殺してしまいました。もっと気を配っていたらと悔やんでいます。今も思い出すとつらいです。死なれるのは一番つらい」

「このままずっと病院にいられると思ったのに、周りがどんどん退院し始めて焦ったのだと思います。病院を安住の地だと思っている人もいたのです。施設病ですよ。当時の僕は、社会復帰することが治療だと思っていた。社会に復帰して、仕事をすることが治療だと。だからみんなの仕事の世話をしたり、近所の人に頼んだりして、どんどん退院させていこうとした。それでみんなが喜んでくれると、単純に思っていたのです。当時は社会復帰が輝かしいものと謳われていて、僕も洗脳されていた。ところが、そう簡単に言ってもらっては困る人もいたのです。患者さんの側からみたら、急な手のひら返しでしょ。急に外に出ろ、出ろ、と言われて困るわけですよ。そのつらさが、当時の僕は分かっていなかった」

「自殺した患者さんの葬式の帰り、樵悴して病棟に戻った途端、患者自治会の7~8名に囲まれ、病室に連れて行かれました。『看護は動揺しとるぜ』『それ見たことかと言いよる奴も居る』『もう後退はできん』『扉閉めたら、わしら怒るぜ』。40代、50代の自治会役員にとって、30歳そこそこのヒヨコ医者は、さぞかし頼りなかったことでしょう。しかし、開放化をすすめようという熱気が、当時の患者自治会には溢れていました」

H病院で生まれた患者自治会は、1980年に「『精神病』者グループごかい」へと発展し、小規模作業所運営や「働かない権利」の訴えなどを行っていきます。また、H病院の職員の間では、組合結成に向けた動きが始まりました。

「組合の結成は、うまくいくかに見えました。ところが看護の人たちが、最後の最後になって医者抜きの組合にしようと動いたのです。僕だけではなく、ケースワーカーと心理も、大卒だからという理由で弾かれました。『看護と看護助手と厨房で組合をやる。あなた方は経営側だ』と言われたのです。こちらは全く意識していなかったのに、彼らは強い学歴コンプレックスを抱いていたのでしょう」

こうして笠さんは、H病院でも居場所を失っていきました。

「院長は僕のやることに呆れていました。でも、『出ていけ』というタイプではなかった。人望のある院長だったから、みんなの意見も聞いてあげて、僕のやることも認めなくちゃならない。結構我慢して、太っ腹な人ではありましたよ。改革が評判を呼んで経営的には潤っていたので、僕が面の皮が厚くて平気でいればよかったんですけど、古い看護連中からの突き上げがあってね」

笠さんは結局、H病院を4年ほどで辞めることになりました。そして始めたのが、たこ焼き屋でした。

(続く)

30代で病院の大改革を進めた笠陽一郎さん(松山市のしいのき心療内科 2021年7月22日)