笠陽一郎さんの「波乱万丈の精神科医人生」②/電気ショックの雨あられ/患者を「ぼかして」競輪に行く看護長
精神科医の笠陽一郎さんは、卒業した神戸大学医学部の附属病院と、民間精神科病院で約2年間の経験を積み、松山に戻りました。そして愛する故郷で、人権の欠片もない精神科病院を変えるための様々なチャレンジを始めたのです。
ですが、その話を始める前に、1970年代前半を過ごした神戸時代を少し振り返っておきましょう。笠さんがミニコミ誌「えどがわ・はつ」に寄稿し、日本社会臨床学会の社会臨床雑誌(2000年4月発行、第8巻第1号)に転載された「僕の見た精神医療」から、印象的な記述をいくつか抜き出していきます(文中の個人名や病院名はアルファベットに変更)。
「学生時代は、いくら神戸大といえども、封鎖とデモと集会に明け暮れていて、否応無く、いつもその渦中にいた。そして、人並みに悩み、徹夜で議論をしたり、本を読みあさったりもしたのだが、結局心は覚めていた。覚めた心のまま、何も知らなくてもやれそうなところ、そして誰も行きたがらぬところ、つまり精神科に進んだ」
「病棟では、マラリア発熱療法や、インスリンショック療法、電気ショック療法などを、当たり前のようにやっていた。教授回診のあとを、ぞろぞろついて歩き、一人の入院患者を取り囲んで、ああでもないこうでもないと、カンファレンスをやっていた。違和感があった。それ以上に、精神医学そのものに、全然興味が無く、覚めたままだった」
マラリア発熱療法は、精神症状も引き起こす神経梅毒の治療法として20世紀初めに考案されました。患者をわざとマラリアに感染させ、発熱によって神経梅毒を改善させようとする危険な方法です。改善した患者もいたようですが、マラリアが原因で死亡する患者もいて、1928年に発見された抗生物質ペニシリンの普及とともに、臨床の場から消えました。
またインスリンショック療法は、精神分裂病(現在の統合失調症)の治療法として20世紀前半に提唱されました。空腹時にインスリンの皮下注射をして、強制的に低血糖状態を作り出し、それによるショックや昏睡で症状が改善すると考えた治療法でした。これも重大な医療事故につながる恐れがあるため、1950年代の抗精神病薬の登場と共に廃れていきました。
どちらの治療も、今では精神医療の黒歴史といえるものです。そんな方法がなぜ、1970年代にも行われたのでしょうか。笠さんに確認してみました。
「よく言えば研究心、悪く言えば実験材料とか、指導の為だったのではないでしょうか。当時の上司の意図は不明ですね。断眠治療というのもあって、患者さんに徹夜を強いて、血液検査を2時間ごとにやったりしました」
まさにMADな世界です。精神医療の現場では、MAD扱いされる患者よりも、医師や看護師の方がMADだという逆転現象は、今もあちこちでみられます。
笠さんは、神戸市内の民間精神科病院にも勤務しました。その1つがS病院です。
「S病院は、院長が神戸大教授のKとベタベタしており、当時の講師や助手が、代わる代わる出入りしていた。作業療法という使役のもと、広大な敷地の一角に、入院患者たちを使って池を掘り、ゴルフの打ちっばなし場が作られていた。池は確か2つあった。そのまわりには沢山の木が林のように植えられていた。ロボトミーをされた者、優生手術をされた者、Kの研究のため集められた小児(元小児)等が、たくさん徘徊していた。何人もの人が死んだ」
「自分たちが掘った池に、真冬に入った人が、何人かいた。小雪の降る朝、池の端には、靴が揃えられ、衣服も脱いで、きちんと畳まれていた。警察のアクアラング隊が、焚火でぬくもりながら、捜索をしているのを、暖かい医局の窓から眺めていたこともあった。林の木で、首を吊る人も多かった。グランドの北に立っていたシキミの樹が、葬式の多さに、枝を切られすぎて、枯れかかったこともあった。いつも死人の始末をする数人の職員がいた。彼らは、時に入院患者にもなり、また時に職員でもあった。逃げようとする人や、暴れる人を押さえるのも彼らの役目だった」
このようなホラー映画のような病院にも、淡々と適応していける医師たちがいます。そういう類が大学に残り、出世していくのかもしれません。しかし、笠さんにはできませんでした。人の痛みが分かる普通の人間だったからです。
「大学とその周辺の精神病院は、底の深い闇だった。何も分からず、また分かろうともせず、たった2年で疲れてしまって、故郷に帰ることになった。あまりに無知で、あまりに無関心で、情け無い逃亡だったと、ようやく今にして思う」
ところが、松山の精神科病院(М病院)に移った笠さんを待ち受けていたのは、神戸を上回る惨状でした。以下、再びインタビューに戻ります。
「Ḿ病院は当時、870床、12病棟ありましたが、医者は5人だけでした。医者5人で870人を診るなんて、そもそも不可能なのです。そこでは看護長が実権を握り、注射の指示とか電気ショックの指示なども出していました。医者は後から『何々を打ちましたよ』とか、『電気ショックを指示しました』とか聞かされて、サインするだけでした」
「各病棟には電気の当番というのがあって、曜日ごとに担当を決めて、870人のうちの70人から80人くらいに電気ショックをかけて回りました。当時の電気ショックは麻酔もかけず、額の横に電極をあてて強烈な電気を流していました。自分の担当患者ではない人に電気をかけることもあり、『この人、何回目なの。もうやめたほうがいいんじゃないの』って聞いても、看護長や主任は『やめちゃダメですよ』と言うばかり。むちゃくちゃですよ。電気ショックの装置は病棟ごとに置いてあって、患者さんがずらりと並びます。ベッドの所に来たら電気をかけて、目が覚めたら部屋に返して、という流れ作業です」
目の前にいる患者が、麻酔もなしに電気ショックをかけられて、激しく痙攣しながら失神する。そんな姿を見れば、怖くて逃げ出す人も多くいたのではないでしょうか。
「もうそんなレベルではないのですよ。数十回かけられている人が多いから、みんなボーっとしちゃっていて、感情も失っていました。そういう人たちに、さらに電気をかけるのです。誰かが止めなければ、50回や100回になります。看護長が昼間に競輪に行くために電気をかけるのです。電気をかけておけば、放っておいても大丈夫ですから。それが精神病院の当たり前の姿でした」
「僕はḾ病院に昭和49年(1974年)4月から勤めたのですが、この年の3月に、その病院で最後のロボトミー手術が行われました。Ḿ病院は大変多くのロボトミー手術を行っていたのです。様々な批判を受けて、ロボトミーができなくなった直後に僕は入っているので、直接は見ていないのですが、ロボトミーを受けた人はたくさんいましたね。それで、ロボトミーを受けた人にも電気をかけるのです。うまく切れていないとか、浅すぎたとかでね。ぼかしそこなった人がいたのでね」
「電気ショックの作業も、看護長が中心的にやっていましたね。当て方が浅いと皮膚が焦げるので、きちんと当てないといけない。きちんと当てるためには力がいるんです。腕が疲れてきっちり当て損なうと真っ黒こげになってしまって、その後、できなくなるのですよ。だいたい電気は週1回、多い人だと週3回。神戸の病院にいた時は、朝と晩の2回やられている患者さんもいました」
このような電気ショック乱発のせいで、死んでしまう人もいたようです。
「実際、死亡例を目撃したことがあります。担当者が忙しいとかいうことで、本当は午後3時とか4時にやるところを、1時に回したんですよ。食事を終えた直後です。そしたら、ワーッと吐いて誤嚥して、それで死んでしまいました。それから、熱が出てる人には絶対タブーなのに、かけて意識が戻らなかったとかね。この2例は、明確な例としてありましたね。記録では、一番多い人で百何十回かけられている人がいました。繰り返しの電気でぼかし過ぎて動けなくなっちゃうと、またそれはそれで手がかかるから、動ける範囲で静かになってもらわないといけない。そこを見極めるのが我々の仕事だと、偉そうに言った医者もいました」
笠さんは、こんな惨状を放置できませんでした。自分の知らない患者にまで、医師が本当に指示したのかも分からないまま、電気をかけ続けなければならないのですから。そこで考えたのが、5人の医師たちの担当病棟を決めることでした。医師1人あたり200人近い患者を抱えることになりますが、笠さん自身が受け持つ病棟の患者たちは、少なくとも電気ショックなどから守ることができる。そう考えて行動に移したのです。
「とにかく根回しして、病棟主治医制にして、各病棟に担当医を一人決めてやろうとしました。根回しは全部済んで、職員全員が出席する病院会議を開いて、僕が提案して挙手の場面になりました」
しかし、敵は甘くありませんでした。
「全く誰も、ひとりも手を上げなかったのです。はしごを外されたのです。向こうも根回ししていたんですね。そんなことをしたら、医師が忙しくてたまらないだろうと。だから手を挙げるなよっていうのが、回っていたようです。これからも各病棟で勝手にやってくれよ、ということです。完全な敗北です。Ḿ病院は、腕力に自信のある職員が目立ち、その多くが親戚関係にありました。要するに、土地のものが全部いる。私は松山生まれなのに、よそ者扱いなのです。すごい世界だったですね」
そして、笠さんを追い出すための企てが始まりました。といっても複雑な仕掛けではなく、極めて幼稚な嫌がらせでした。
「ある朝、病院に行ったら机と椅子がなかったんです。診ていた患者さんたちは全員、一夜にして他のドクターに回されていました。病院は『辞めろ』とは言いませんでした。でも、患者さんに関われないのならば、居ても意味がないですからね」
笠さんは、松山市内の別の精神科病院(H病院)に移りました。そこで、今までの鬱憤を晴らすかのように、大改革を進めていったのです。
(続く)
