父のプレッシャーで病気を明かせなかった数十年/嘘を重ねる苦しさに苛まれる/安全なトリカゴからの自立とは

みなさん、こんにピア!!

精神疾患を患う人の多くは、人間関係に苦しんでいます。中でも、窮屈な親子関係が発端となり、心を苛まれていく人が目立ちます。横浜市内の福祉作業所に通うガンジー友蔵さん(47)も、その1人です。

友蔵さんを苦しめてきた父親は、決して極悪な人物ではありません。子ども思いの良い親だと、周囲は評価しているはずです。でも、友蔵さんは苦しんできたのです。何がそんなに苦しいのか。友蔵さんが手記を書いてくれました。

トリカゴという名の甘え

ガンジー友蔵

先日、腰を痛めて接骨院へ行ってきました。治療をしながら仕事のことを聞かれます。仕事はせず、福祉施設に通っている私は困りました。

初めは適当に流して話していたのですが、どんどん具体的に聞かれてきます。私は黙ってしまいました。当然、先生の態度も冷たくなりました。少し迷いましたが、「実は」と福祉施設に通っていることを話しました。さすがに、誤解を受けやすい統合失調症を患っていることは話せないと思い、「うつになって」と話しました。

先生の態度は変わりました。好意的になりました。今までずっと嘘をつき続け、病気のことを隠し続け、表面的に取り繕ってきた私にとって、何かが変わりました。

今から20年以上前になりますが、大学3年生の時に、住み込みのアルバイトをしました。そのアルバイトの不規則な生活と、担当の上司とうまくいかなかった事で体調を崩し、精神科に行きました。薬が合わずますます体調を崩し、それ以来、医者には行かず、2年後に統合失調症を発症しました。2か月入院し、実家に戻りました。

その後、今とは違う福祉施設に通い始めました。その頃に親戚の家を訪ねました。その時、父に「仕事をしていない事は話すな」と言われました。「お前はすぐ本当のことを話す」と。親戚にさんざん嘘をつきました。それで平和に終わった、という訳にはいきませんでした。

父は帰宅するとお酒を飲みます。ある夜、ほろ酔いの父が親戚と電話で話す声が聞こえてきました。「あいつは仕事なんかしてねえよ」「お金にならない人間を抱えているこっちの身にもなってよ」。私は顔から血の気が引きました。親戚に合わす顔がないと思いました。親戚の葬式にも行けなくなりました。

それ以来、私は、近所の人たちにも仕事をしているフリをするようになりました。朝9時30分に家を出れば福祉施設には十分間に合ったのですが、朝8時に家を出て喫茶店に行き、本を読んでそれから福祉施設に通いました。帰りは、また喫茶店に寄り、本を読んでから帰宅しました。フルタイムで仕事をしているフリをしたのです。

近所に対しても、父に対しても、常に嘘をつき続けるようになりました。嘘をつかなくてもよかったのは、福祉施設の担当スタッフとカウンセラーだけでした。

12年間働いた福祉施設を辞めようとした時、父は何も言いませんでした。福祉施設のあるスタッフには、私は恵まれているとよく言われました。でも、私は何か違和感を抱いていました。

お金には困っていない。家事も父がやってくれる。確かに恵まれていました。父にも「お前の好きなようにさせてやっている」と言われました。私はトリカゴの鳥だと思いました。父にとってはよかったかも知れません。カゴの中に鳥がいれば淋しくないからです。自分の言うことを聞く息子が常に家にいて、面倒をみてやっているという充実感を感じて。

私は仕事が出来なかったので、父に従うしかありませんでした。私は自分が本当に求めているものは何だろうと考えたこともあります。でも、現実的には福祉施設に通うしかありませんでした。父の加齢が目立つようになると、父が倒れたら、亡くなったら、どうなってしまうのだろうという心配ばかりするようになりました。親戚にどういう顔をしようか、どう病気を隠そうか、そんなことばかり考えるようになりました。そういう時に、接骨院に行ったのです。

病気を隠そうとするから苦しいのだとわかりました。でも、もし私が父の立場だったら、息子の病気の事をオープンに出来ただろうかと考えたら、疑問です。父は「クレイマー、クレイマー」という映画が好きでした。妻と別れて一人で子どもを育てていく物語です。早くに妻を亡くし、一人で子育てをしていかなければならない自分を重ねていたのだろうと思います。本当は父に感謝しなくてはいけないのかも知れません。

でも、父はいつも怒っていました。感謝する余裕はありませんでした。私の調子が良かった時、一度、「今まで一人で育ててくれてありがとう。父さんのおかげだ」と伝えたことがあります。父は「分かりきっていることだ」と言っていました。私が父によって傷つけられたという思いには、気づかなかったようです。

父は70歳を過ぎてから丸くなりました。40代になった私は、病気になってから初めて父に反抗しました。私の反抗期は40代とも言えます。でも、やめました。このまま父が亡くなったら後悔だけが残ると。

47歳になった今の私に出来ることは、病気を少しずつオープンにすることです。父が一番嫌がることですが、近所に対して、親戚に対して、これ以上嘘をついて、びくびくしながら生きていくのは私には耐えられません。

今は、勇気のいることですが、精神障害者として生きていくつもりでいます。信用できる相手にしかまだ打ち明けられませんが。それが私にとって父を乗り越えていく手段の一つだと考えています。

ただ、水もエサも与えてくれるトリカゴという環境に甘えている自分がいます。そこから出たいのですが、出るというのは、自分で仕事をする、お金を稼ぐ、自立する、ということです。それが出来れば一番いいのですが、私には非常に難しいです。

でも、いずれは父も亡くなります。自分からトリカゴを出ようとしなくても、トリカゴそのものが無くなります。そのための準備をもうしなくてはいけないと思っています。今、出来ることは何か。それはとてつもなく大きいことではないように思っています。まず、体調を安定させる、福祉施設にきちんと通う、自分の出来ることをやっていく。そんな平凡なことの積み重ねだと思っています。父の介護も含め、それが私に与えられたまず乗り越えるべき課題だと考えています。

いかがでしょうか。友蔵さんの周囲に、見えないトリカゴを作ったのは、父親だけではないような気がします。「異質」をすぐに排除したがる日本社会の空気が、こうしたトリカゴを至る所で生み出しているのではないでしょうか。友蔵さんのように、秘めてきた思いを表現、発信する人がもっともっと増えれば、精神疾患は「異質」ではなくなり、トリカゴは必ず減っていきます。そのためKPのWebサイトでは、トリカゴから出ようとする人たちの生の声や様々な表現を、これからも発信していきます。

それではまた、ケイピー!!