原義和さんの「映画『夜明け前のうた』」/私宅監置は「国家の恥」/隔離小屋の保存運動を

「沖縄では『私宅監置』の記憶がまだ生々しい傷として残っています。閉じ込められた本人が悪いことをしたわけではない。家族が自ら進んで悪いことをしたわけでもない。それは日本という国家が作った制度の中で行われて、本当に恥ずかしいことをしたのは社会の側なのです」

精神疾患の患者を、家の座敷牢や隔離小屋に閉じ込める「私宅監置」の手続きを定めた精神病者監護法(1900年)。日本本土では1950年に廃止されましたが、第二次大戦後、長らく米国の統治下にあった沖縄では、本土復帰の72年まで私宅監置が残っていました。60年代に精神科医の岡庭武さんが沖縄で撮影した隔離小屋や被害者たちの写真を頼りに、私宅監置の実態に迫った映画「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」の監督・原義和さんは、制作過程で直面した困難を次のように明かしてくれました。

「僕は、そもそもの罪は国にあるという思いを、取材の過程で住民の方々にお伝えしてきました。でも、ご家族やご遺族は決してそんなふうに思わない。いくら説明しても分かってもらえないのです。自分たちの『恥』という意識が強く、それを曝け出すことに今も強い抵抗感があるのです」

「取材を拒否されたりとか、苦情を言ってこられたりとか、たくさんありました。沖縄の島は小さいし、生きていくために見ないようにしよう、というふうになりがちです。そうした地域性の中で、地元の人がこの映画に協力するというのは、若い世代でも客観視できない部分があると思います。『よく掘り起こしたね』みたいな内地の肯定的評価とは違う。『こんなことを今さらやる意味があるの』というような、もっとヒリヒリとした思いを感じます」

それでも、原さんがこの映画を完成させたのは「過去を直視することでしか、確かな未来は開けない」という思いからでした。

原さんが言うように、私宅監置は全国各地で行われていました。それが沖縄では、米国統治の混乱の中で、本土より22年も長く続いてしまった。決して沖縄県民が望んだものではないのです。

私宅監置の爪痕が本土では完全に失われた今、この残虐性を生々しく伝えるには、まだ生き証人がいる沖縄で記録を残すしかないのです。16年前から暮らしている、愛する沖縄から追われることになったとしても、やるしかないと原さんは決意したのです。

「『昔は大変だったよね。今はこんなひどいことはないから大丈夫』みたいな見方や、『これって沖縄の特殊事情。大変だったんだね』というような受け止め方をされないように作ったつもりです。ただ、これはテレビ番組ではなく、料金を払って主体的に観てもらう映画なので、お説教臭くはしていません。お客さんに、これは形を変えた今の問題でもあると感じてもらえたらよいと思っています」

私宅監置は制度としては過去の話ですが、昨今の身体拘束の急増など、地続きの人権侵害が止まりません。私宅監置の背景にある障害者軽視は、今も続く普遍的な問題であり、映画では西アフリカの身体拘束の状況なども紹介されています。

この映画は今年、全国各地で公開され、コロナ禍で苦戦しながらも注目を集めています。ただ、注目と引き換えの懸念もあります。島々の片隅に今もかろうじて残るいくつかの隔離小屋が、壊されてしまう恐れです。歴史的な遺産として、隔離小屋を残せないものでしょうか。原さんはこう語ります。

「そこは本当に簡単じゃないんですよ。隔離された人の親族の中にも、残したいという人もいれば、地域の恥だから早く壊せという人もいます。何らかの力学が陰で働いて、突然壊されてしまうかもしれないし、本当にわからないのです。ただ、現存する隔離小屋は残さなければいけないと思っています。沖縄で実際に小屋を見ても、隔離された人の気持ちなんて1㍉も分からないと思います。でも、あれがあるのとないのとでは、まるで違うのです」

「隔離小屋を壊すという行為によって、親族の人は一区切りつけたいのかもしれません。でも小屋を壊してしまったら、事実の隠蔽に加担することになる。『地域の恥だからなかったことにしよう。壊してしまおう』という考えは、そうした隠蔽の意味を含んでいると思うのです。残すことで、2度と繰り返さないという意思を示すことが大事だと思っています」

「恥ずかしいことをしたのは地域ではないのですから。地域の人は恥ずかしい思いをさせられただけで、問題の責任は日本という国家なのだから。そこに恥ずかしさがあるわけです。だから、こんな恥ずかしいことを国家がやってはいけないよね、ということを刻み付けるために、あの場所は必要なんです」

保存運動には、行政との連携が欠かせません。沖縄県などはどう考えているのでしょうか。

「行政は家族感情を第一に考えます。そこが、この問題の難しさだと思うのです。これを残すことの社会的価値は行政も分かっているのですが、結局は、『遺族はなんて言っていますか』となってしまう」

被害者や遺族の感情に配慮することは大事です。しかし、後世のために必ず残さなければならない負の遺産はあります。世界遺産の原爆ドームも、被爆者の感情だけを優先していたら残せなかったでしょう。

新型コロナウイルスの騒動でもわかるように、日本という国家は非常に無責任な体質があります。私宅監置では、家族を監護義務者という主体者にして重い責任を負わせました。そして、国が事実上の主体者にも関わらず、家族に「恥」という負い目を抱かせ、人権侵害のお先棒を担がせてきたのです。

「これは沖縄の恥ではなく社会の恥なのですが、当事者はそう思えない。行政庁の決済が行われているにも関わらず、家族がやったみたいな、制度設計上そういう作りになっていました。周りから見ると『あのうちでやっている』となってしまう。その後、強制入院制度などで導入された家族同意の源流は、私宅監置の監護義務者を家族が負うという所にあると僕は思っています」

沖縄での私宅監置は、先にも触れたように制度上は72年まで続きました。しかし映画では、それ以前に小屋を出られた人たちの報告もあります。「助けてくれた人がいたからですよね。そこは救いのように感じました」と私が感想を伝えると、原さんは戸惑い気味にこう語りました。

「それが救いなのかどうかは、また怪しいわけです。映画に登場した60年代に出たケースでいうと、宮古病院に精神科病棟ができたのが67年かな。那覇ではもっと前から、50年代から精神病院がいくつもできています。精神科医の呉秀三なんかも私宅監置はだめだと言って、入院医療につなげようとしたわけですが、そのまま長期入院時代にスライドして行ったわけです」

「那覇でも病床がどんどん膨れ上がり、長期入院時代に突入した。隔離小屋から出られたからよかったという単純な話ではなく、地域からの排除という意味では全く変わらなかったのです。もしかしたら、私宅監置の時代は親とのやり取りがあったかもしれないけれど、離島から那覇の病院に行ってしまったら、家族もなかなか面会に行けないし、完全に切れてしまう。むしろ、入院時代になって地域との関係は完全に崩壊したといえるかもしれません。写真を保存していた琉球大学の吉川武彦先生も『病院時代になってむしろ後退したと思っている』と語っていました」

「映画では詳しく描いていませんが、退院して施設暮らしを始めた人たちも日常生活を厳しく管理され、自由に生きる機会を奪われ続けました。要するに、本質的には何も変わらなかったのです。私宅監置から解放されたからと言って、被害者は救われたわけではないのです。自由を制限され、夢を奪われた人生だった。そして、諦めというものを強いられてきた。では、どうしたらいいのかというと、この世界にユートピアなんてない。みんなで考えていく、ということしかないのです」

この映画では、自由を奪われた人たちが口ずさんでいた歌が、度々登場します。とても印象的です。

「この映画で大事にしたかったのは歌です。隔離された人たちは、小屋の中でどんな歌を口ずさんでいたのだろうか。歌う姿の中に、その人にとって、本当に大事にしなければいけない尊厳が含まれているのではないかと思って、そこを追い求めました。だから本当は、社会告発映画ではなく、歌を追い求めていくストーリーなんですけどね」

「歌う行為に理由はなく、歌いたいから歌う。踊りたいから踊る。もしかしたら、歌い踊る行為によって、いろんな障害を越えていけるかもしれない。表現をする行為は誰でも一緒じゃないですか。当事者にたいした役割はないと思われがちですが、諦めなどを強いられた経験は、味わった人でないとわからない。足を踏まれた人の痛みは、踏まれた人しかわからない。僕はそうした思いを込めた歌や踊りなどに、社会を変える力があるはずだと思っている。だからこそ、歌を追い求めていく映画にしたのです」

映画「夜明け前のうた」は、6月以降も各地で上映が続きます。スケジュールは、この映画のオフィシャルサイト(https://yoake-uta.com/)でご確認ください。

映画「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」の監督・原義和さん(東京都内で撮影)