大野裕さんの「認知行動療法」④/人生に生かす武道力
米国の精神科医アーロン・ベックさんが提唱し、約30年間の不遇を経て価値を認められた認知行動療法。それを日本で広めた大野裕さんについて、「西洋かぶれ」という短絡的なイメージを抱く人もいるかもしれません。
しかし、限られた情報による決めつけは禁物です。大野さんは学生時代から空手に取り組み、「武道を学んだことが生き抜く力になった」といいます。そして、武道の教えとストレス科学との間に多くの共通点を見出し、メンタル不調に悩む人たちを和と洋の視点から支えてきたのです。
大野さんの著書といえば、20万部のロングセラー「こころが晴れるノート」(創元社)など、認知行動療法の分かりやすい解説本が知られていますが、今回は昨年出版された「『心の力』の鍛え方~精神科医が武道から学んだ人生のコツ」(岩崎学術出版社)から、要点の一部をピックアップしてご紹介します。
この本の第1部では、自身の挫折体験が語られています。大野さんは、慶應義塾大学医学部を出て米国のコーネル大学などに留学し、当地のトップクラスの精神科医たちと交わって認知行動療法を日本に持ち帰った人ですから、略歴だけ見ると完全無欠のエリートのように思えます。ところが、大野さんは高校1年の時、落第しているのです。
「そのころの私は、何事にも自信がもてないでいました。何をやってもうまくいかず、学校の成績も極端に悪く、自分は何も満足にできない人間だと考えていました」
そのどん底から「自信」が育っていったのは、信頼して何も言わずに支えてくれた両親や、受け入れてくれた同級生、辛抱強く指導してくれた教師の存在が大きかったようですが、それに加え、「高校生の時に空手に出会えたこと」で人生は大きく変わったといいます。
「ケンカが強くなりたかった」。神社の境内で見つけた空手道場に通い始めたのは、そんな動機からでした。何をやってもうまくいかず、ムシャクシャしていたのでしょう。ところが実際にやってみると、簡単に見える突きなどの動きも、先輩のように綺麗にできない。何度繰り返してもうまくいかないので、「無理だ」と投げ出したい気持ちになる。それをぐっとこらえて練習するうちに、何かの拍子にうまくいく瞬間と出会えたのです。
「そうすると、少し気持ちを取り直して稽古を続けようという気持ちになってきます。報酬系と呼ばれる脳の神経ネットワークが刺激されて、意欲が出てくるのです」
メンタル不調の時に表れる特徴的な考え方に「〝どうせ〟の魔術」というものがあります。学校の成績が悪くなると「どうせ自分はだめなんだ」と考えて勉強しなくなり、成績がますます下がって気力が失われていくのも「〝どうせ〟の魔術」です。この言葉は大野さんが考えたのですが、空手の稽古でこの「魔術」を振り払った大野さん自身の体験から導き出された言葉だったのです。
「『〝どうせ〟の魔術』から自分を取り戻すには、辛くても自分の力でその状況から抜け出すことができたという体験をすることが役に立ちます。そのとき、大げさな成功体験ができれば良いのですが、そうしたことはあまりありません。ですから、ちょっとした成功体験で十分ですし、それを繰り返し体験できれば、気持ちはますます元気になり、自信もわいてきます」
「もちろん、そうなるまでには時間が必要です。つらくて投げ出したくなります。でも、あきらめないことです。あきらめなければ、必ずチャンスがめぐってきます」
空手を通して自分を信じる気持ちが高まった大野さんは、複数回の不合格にもめげず、目指す慶應義塾大学医学部に合格。米国留学も、言葉の壁や人種差別などで当初は順調とはいえませんでしたが、「せっかくの留学体験を意味のあるものにしたい」ともがいたことが、アーロン・ベックさんとの出会いなどにつながっていきました。
「あのとき順調に留学生活が進んでいたら、認知行動療法に出会うことはなかったでしょう。あのとき、ある意味で失敗したからこそ今の自分があるのだと、あらためて思います」
大野さんはこの本を通して、「心のしなやかさ」が大事だと説いています。迷いや悩みは、心を一か所に止めてしまうことから生まれるからです。沢庵宗彭の「不動智神妙録」をはじめとする数々の武道の教えは、過剰なこだわりから心を解き放ち、状況に応じて自由自在に動けるようにすることで、本来の心の力が発揮できるようになると伝えています。全体を俯瞰しながら、目の前の問題に取り組む姿勢が大事なのです。
武道では「不動心」を重視します。これは「どのような場面でも動揺しない心」のように思われがちですが、大野さんは「(それは)鈍感としか言いようがありません」と指摘し、「不動心」を「とらわれない心」と言い換えて、次のように書いています。
「どのような武道に携わっていても、危ないときには自然に危険を感じて上手に捌いて、身をかわす。逆に、好機だと判断したときには、それを見逃さず間髪を入れずに攻め込んでいく。このように柔軟にとっさの反応をしながら、しかし自分を見失わないのが武道の神髄です」
「不動心」とは、何があっても動じない心ではなく、状況に応じて臨機応変に心身を動かし、その結果、揺るぎない「不動」の自分を手に入れることなのかもしれません。何か起こった時に視野狭窄にならず、様々な情報に目を向けてよりよい道を探ることで、状況を好転させていこうとする認知行動療法の考え方と、確かに共通しているように感じます。
武道の世界と同様に、日常生活でも、複数の敵(複数の問題)が同時に襲ってくることが度々あります。そんな時、複数の問題に一度に取り組んで力を分散するのではなく、優先順位をつけて先頭の問題からひとつひとつ片付けていく「シングルタスク」の重要性を大野さんは書いています。
「ひとつの課題に集中して取り組めば、自分の持っている力すべてを集中して、効率的にその課題に取り組むことができます。その結果、成果が上がりやすくなって、自分の期待する現実に近づくことができるようになります」
現代社会ではマニュアル化が進んでいます。誰もが標準的な仕事をこなすために、マニュアルは有効です。武道でも型が重視されます。型を徹底的に練習していれば、実戦力も磨かれると考えられています。ただし、これも「こだわり過ぎ」はいけません。型を徹底的に習得した上での「型破り」が必要なのです。宮本武蔵はこう言っています。「構えありて構えなし」。
武道はまた、緩急を大切にします。これは日常生活でも大事な視点です。
「必要な時に最大限の力を発揮できるようになるためには、生活に緩急をつけることが大事です。自分の使命を果たすために一所懸命に準備しながら、同時に適度に力を抜く勇気を持つ必要があるのです」
「真剣に自分の課題に取り組んでいるときに立ち止まるのは、無駄なように思えます。不安にもなります。しかし、そのようなときこそ無駄に時間が過ぎる体験をすることが大事なのです。そのようにすることで、具体的な問題が見えてくると、それに対する対応策を考えることができます。何もしないことで頭が自由になって、思いがけない気づきが生まれることもあります」
こうした「緩」を学ぶ良い例として大野さんが紹介しているのが、戦乱の時代に京都で生まれた茶の湯です。
私は5年ほど前、大野さんに紹介されて京都市上京区の町屋で「茶の湯セラピー」を受けたことがあります。夜、真っ暗な茶室に和ろうそく1本。そこで20分ほど、1人で集中して過ごします。和ろうそくの規則的な瞬きが目を閉じても感じられ、亭主が天気に合わせて選んだお香が嗅覚をくすぐります。聴覚には窯の鳴る音。湯の温度によって、岸波、遠波、松風など6段階に変化していきます。
外界を遮断し、感覚に身をゆだねる心地よさ。やがて亭主が戻り、深呼吸をしたり、意識を茶室の内外に振り向けたりしながら、セラピーは進んでいきました。そして最後は、季節に合わせた茶器でお茶とお菓子をいただき、味覚と触覚も満足。ゆったりした時間と空間の中で、五感を適度に刺激する。これこそが緩であり、癒しなのだと実感しました。
この本の締めくくりで大野さんは、米国の著名精神科医が著書で紹介している真珠貝と砂粒の話を取り上げています。体内に入り込んだ不快な砂粒を吐き出せない真珠貝は、砂粒をなめらかな物質で包み込むことで共存をはかり、それはやがて真珠になるのです。
「思うように進まないという不愉快な砂粒が真珠に変わるかどうかは、時間が経ってはじめてわかります。そして、その不愉快な体験を真珠に変えられるのは自分でしかありません」
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大野裕さんを講師に招いたKP勉強会「大野裕さんに認知行動療法を学ぶ」を、7月3日(土)の午後(時間は6月に決定)に開催します。参加費1000円。会場は、京浜急行上大岡駅直結のウィリング横浜(横浜市南区)。参加申し込みと問い合わせは、電子メール(mail@kp-jinken.org)にお願いします。
