大野裕さんの「認知行動療法」➂/デジタルセラピーの未来

「専門家」と一口に言っても、その実力は様々です。精神療法や心理療法といったカウンセリングの専門家にも、技術の優劣があります。質の低いカウンセリングを受けると、かえって悩みを深めるなどの「副作用」に見舞われる恐れもあります。

認知行動療法を日本で広めた精神科医の大野裕さんは、認知行動療法もどきを行う医師や心理士たちに悩まされてきました。大野さんは以前、国立精神・神経医療研究センターで認知行動療法センター所長を務め、現在は認知行動療法研修開発センター理事長として後進の指導にあたっていますが、経験豊かな指導者がまだ少ないこともあって、社会の需要を満たせるほどの、優れた専門家を多数輩出するには至っていません。

認知行動療法は単純化したイメージで語られがちですが、専門家は次のような高度な支援が求められます。

①悩んでいる人の症状だけでなく、精神医学的な問題が生じた原因や、問題を持続させている要因を理解する。

②同時に、その人の生まれ育ちや、どのような心理的課題があるのか、その人はどういう特徴があって強みや長所はどうなのかなど、マイナス面だけでなくプラス面もみていく。

③その上で、その人がどうなりたいのかを一緒に考える。それを妨げている要因があれば、取り除く手立てを見つけていく。

こうしたプロセスをしっかり踏みながら、患者を回復に導くには、専門家としての豊富な経験や知識が必要になります。基礎を少し学んだだけで、一朝一夕にできることではありません。

大野さんは次のように指摘します。

「認知行動療法には、認知に働きかけるアプローチと行動に働きかけるアプローチがあります。考えが変われば行動が変わり、行動が変われば考えが変わります。そのため、認知的技法と行動的技法に便宜的に分けていますが、これは互いに、場面に応じていいものを選んで使うことになります。それを適切に判断し、助言できるのが専門家なのですが、きちんと判断するのはなかなか難しいのです」

そこで大野さんは、欧米で先行する「IT技術を生かした認知行動療法」の国内導入に取り組んできました。コンピューターなどの活用によって、一定水準の認知行動療法を常に受けられる仕組みを広めることで、粗悪なカウンセリングを減らしたいと考えたためです。そして、認知行動療法を健康な人にも活かしてもらうためのWebサイト運営や、医療機関での認知行動療法にIT技術を導入するデジタルセラピーの実用化、などを進めてきました。

「考え方を整理する、現実をみる、行動を変える、気分転換をする、日記をつける、などの認知行動療法で使うスキルは、私たちの日常の知恵とあまり変わりません。そのため少ないマンパワーでも、ITを活用して工夫すれば効果を期待できるのではないかと考えました。実際に、それは可能だと海外で報告されるようになり、10年以上前に私費で立ち上げたのが、幅広い層を対象としたWebサイト『認知療法・認知行動療法活用サイト~こころのスキルアップトレーニング~』です」

このサイトは年会費1500円で、認知行動療法の考え方や基礎を実践的に学ぶことができます。大野さんからのメルマガが毎週末に届き、スマホでも利用できます。こうしたITを用いたメンタルヘルスサポートは、この数年で急速に拡大してきました。一部の職域や学校ではセルフケアを目的に、このWebサイトの利用など、認知行動療法の活用を始めています。

「認知行動療法をセルフケアに生かしてもらうには、分かりやすく伝えることが大事です。私は、4つのステップという形でお伝えするようにしています。変化に気づく→ひと息入れる→考えを整理する→期待する現実に近づく、というステップです。社内研修で認知行動療法の基礎を学ぶと、精神的に健康な人でも、更に自信を持てるようになるという研究結果が出ています。研修後もWebなどを使って自己学習を続けると、効果が持続することも分かってきました」

医療機関でもデジタルセラピーが広がり始めています。コンピューターの力を借りながら、対面で行う「ブレンド認知行動療法」がその1つです。医師や心理士が、患者と対面しながら行うスタイルは従来と同じですが、パソコン画面に表示される手順に沿って、面接を進めていくのがポイントです。

この方法の何が良いのか、大野さんが補足してくれました。

「認知行動療法の基本や次に行うことをパソコンが順番に表示してくれるので、患者と対面する医師や心理士は、患者の反応をみたり、より良いサポートの仕方を考えたりすることに集中できます。これは、外科医の手技を補佐するロボット手術ダビンチの精神科版だと考えています。この段階からパソコンを使うと、以後、パソコンやスマホを用いた認知行動療法の継続的な自己学習につながりやすいため、結果的に治療成績がよく、ドロップアウトを防ぐ効果も確認されています。ブレンド認知行動療法は今、多くの大学が参加した研究で効果の検証を行っています」

大野さんは、セルフケアの新たな手法として、AIチャットボットの実用化にも取り組んでいます。「こころコンディショナー」という名称で、現在、スマホ用のパイロット版を無償で利用できます。「ストレスが溜まって仕方ないのに話せる相手がいない」というような人が対象ですが、特に悩みはない人も、試しに使ってみると発見があるかもしれません。

「話をするチャットボットは、今の音声技術では難しいので、テキストベースのAIチャットボットを作りました。AIは文脈を読んで何かをするのは非常に苦手です。しかし、悩みを解決するのに一番大事なサポートは、答えを見つける手助けをすることです。ご本人にうまく寄り添って、答えを見つけるための刺激を与えることは、AIやチャットボットにもできるのではないか。そう考えて『こころコンディショナー』を作り始めました」

このチャットボットには、相談モードとチャットモードがあります。相談モードは、うつ、不安、怒りという3大感情に応じた流れで考えを整理して、問題対処能力を引き出していきます。チャットモードは、悩みを抱える人が一方的におしゃべりする機能ですが、ネガティブワードがいくつか続くと相談モードを推奨する仕組みも入っています。

「コロナ禍で、『こころコンディショナー』への関心が高まり、無償公開した最初の3か月で約1万5000件の訪問がありました。アンケート回答者の82.5%が『継続的に利用したい』と回答し、有害事象はありませんでした。東京都の自殺対策のホームページの他、多くの自治体のホームページにアップさせていただく予定です。また、開発中の有償版では、セルフチェックができたり、メルマガが届いたり、自分の経験を整理して振り返ったり、健康問題に関連した新聞記事が出たり、というようなことを可能にしたいと考えています」

このような形でのAIの活用には、違和感や抵抗感を抱く人もいるのではないでしょうか。「人間同士の関係がますます希薄になるのではないか」と。しかし、AIの普及によって「人と人とのつながりが深まる可能性もある」と大野さんは考えています。

「私は最近、AIを人と人との交流のきっかけづくりにもできるのではないかと思うようになりました。『こころコンディショナーを使っているうちに、他の人と話したくなった』とおっしゃる方が結構いたからです。やはり私たちは、リアルな交流が不可欠なのです」

メンタルヘルスの不調は多くの場合、他人との関係の中で起こり、他人との関係の中で癒されます。AIの進化によって、人と人とがつながる価値を再発見する人が増えれば、社会全体のメンタルヘルスは今よりも向上するかもしれません。

(続く)

AIチャットボット「こころコンディショナー」の相談モード