大野裕さんの「認知行動療法」①/「よかった探し」ではない
「精神科の薬物療法は万能ではない。取り巻く環境や、睡眠リズム、栄養バランス、運動習慣などを整え、狭まった視野を広げた先に回復がある」
うつ病などの精神科治療に対する、そのような至極真っ当な見方が近年広まり、視野の拡大を促す精神療法(心理療法)への期待がずいぶん高まってきました。中でも認知行動療法は、精神療法の4番バッターとして位置づけられ、うつ病や不安障害などの治療のひとつとして、日本でも健康保険を使って受けられるようになりました。
しかし、一部で誤解を招いているのも事実です。認知行動療法について「考え方を変えさせる方法」だとか、「楽観的な思考に導く方法」だとか、本質とは違う理解をしている人がいます。昔、フジテレビの世界名作劇場に登場したポリアンナの「よかった探し」(直面した問題の中から、わずかであっても良い面を見つけようとすること)と似たようなものだと思っている人もいます。「よかった探し」は適度に行えばよいのでしょうが、度が過ぎると現実逃避になってしまいます。認知行動療法は、悩める人々をポリアンナ症候群に至らしめる罠ではありません。
では、本当の認知行動療法とは、どのようなものなのでしょうか。第一人者に聞いてみるのが一番です。そこで今回は、10数年前から取材でお世話になっている精神科医の大野裕さんにご登場いただきます。大野さんは、認知療法の創始者である米国の精神科医アーロン・ベックさんのもとで学び、認知療法(認知行動療法)を日本に導入、普及させた立役者です。
大野さんは、認知行動療法に対する誤解の典型や、正しく理解するためのポイントを、わかりやすい事例を使って次のように説明してくれました。
「例えば、職場の同僚たちが揃って食事に行った時、1人だけ誘われずに落ち込んだ人がいるとします。その人は『みんなが私のことを嫌いだから誘ってくれなかった』と考えて傷ついたのです」
「その様子を心配した友人が、聞きかじっただけの認知行動療法の知識を使って、『そういうふうに考えるから落ち込むんだよ。仕事が忙しいあなたのことを気遣って、誘わなかったのでは。そういう風に見方を変えれば、気持ちが楽になるよ』と助言しました」
「この助言は一見もっともなようですが、よく考えると無理があります。『嫌われている』という考えは、確かに根拠のない思い込みかもしれません。でも『みんなが気を遣ってくれた』という考えにも根拠はありません」
「この状況ではやはり、嫌われている可能性も十分あるのです。それなのに『気を遣ってくれた』などとのんびり構えていると、『空気が読めないやつだ』と思われて、ますます状況が悪化するかもしれません。そしてある時、本当に嫌われていると分かって、更に傷つくかもしれません」
「この例では、誘われなかった人が現実にきちんと目を向けないで、最初から諦めていることが問題なのです。みんなと仲良くしたいのに、実現できないために悩んでいる。『どうせ駄目だ』と決めつけているのです。このような無意識に湧いてくる思い(自動思考)をストップして、現実に目を向けて、本当に駄目かどうか確かめてみる。そして、みんなと仲良くするためにはどうしたらいいか、工夫してみる。そういうふうに考えを変えていくのが認知行動療法なのです」
「つまり、認知行動療法でいう『認知の修正』とは手段であって、目的ではないのです。考え方を無理に変えても、問題が解決しなければつらい気持ちは続きます。そのままでは、状況はどんどん悪化していきます」
「もうひとつ注意しなければいけないのが、周囲の環境です。心理的な悩みというと、個人の考え方や受け止め方に目が向きますが、問題が環境にある場合も少なくありません。今の例でいうと、職場に問題があって仕事が1人に偏り、同僚が誘いたくても誘えないのかもしれません。職場にいじめが存在する可能性もあります。そうした場合には個人レベルではなく、職場全体への働きかけが必要になります」
大野さんらの認知行動療法に批判的な人の中には、こうした周囲の環境への働きかけも考慮されるという部分を無視して、この療法を「社会の問題を隠蔽し、無理やり適応させるための仕組みだ」と憤慨する人もいます。しかし、「社会の問題」を「個人の脳の問題」にすり替えてしまう恐れは、薬物療法を含む精神医療全体にあります。「もっと周囲の環境に目を向けよう」という視点は、人のこころと向き合う精神療法があるからこそ生まれてきます。
(続く)
