福田さんは幸せだったのか? 後編/奪われ続けた「自由」
福田哲也さん(仮名)が入院した精神科病院は、なぜ股関節の手術を勧めなかったのか。手術が必要なことは医療の素人でもわかるのに。スタッフが福田さんの声に少しでも耳を傾けていれば、KPちゃんが行くまでもなく、「手術したい」という思いを引き出せたはずなのに。
なぜ、病院はそれをしない。車椅子生活になることで、更に扱いやすい患者になることを望んでいたのか。病院への不信感は、KPちゃんの中で決定的なものになりました。「なんとしても病院から出してやる」。KPちゃんは意地になりました。
手術後、福田さんは再び歩けるようになりました。しかし、運動量が著しく減った約2年間の入院生活のせいで、体力はかなり低下していました。KPちゃんや作業所スタッフが月に1度面会に訪れ、ラーメン屋に連れていく以外は、ほとんど外に出られなかったのです。利用していた退院促進などの福祉サービスも、手術で総合病院に入院している間に契約が切れてしまいました。
「病院にこのままずっと居てもいいかもしれない」
ある日、福田さんの口からそんな言葉が漏れて、KPちゃんは驚きました。でも、考えてみれば当然のことです。その時点で、入院から2年以上も経っていたのですから。年月は福田さんの体力と気力を奪っていきました。
「このままでは病院で一生を終えることになる。なんとかしなければ」。焦ったKPちゃんは、横浜市のワーカーに退院先について相談したのですが、「一人暮らしは無理」と言われてしまいました。「人間関係のトラブルで入院した人に、生活保護からお金を出すのは難しく、高齢者施設を探すしかない」というのです。
福田さんはもともと、一人暮らしを望んでいました。自由気ままな人なので、他人との共同生活は望んでいなかったのです。しかし、以前もグループホームに住んだことがあったし、高齢者施設は病院よりはマシに違いないと、KPちゃんは考えました。
気力が萎えかけていた福田さんに、どんな言葉をかけたら響くのか。必死に考えました。そして思いついた言葉は、「退院したらラーメン屋に自由に行けるから」。福田さんは、この言葉に笑顔で応えてくれました。そして、「うん、退院する」。
KPちゃんがいる作業所近くの高齢者向けグループホームに、入所が決まりました。突然の入院から約3年、やっと退院することができました。
ところが、グループホームでも「自由」を取り戻すことはできませんでした。入所したグループホームの決まりとして、作業所に通うことでしか自由な外出を許されなかったのです。そのため、できれば週に数回は受け入れたかった。しかし、週一回が限界でした。既に車椅子なしでは生活できないほど足腰の弱っていた福田さんの受け入れには、複数の職員の協力が必要となります。慢性的な人手不足に悩む作業所では、週に一度しか体制を整えられなかったのです。
作業所で過ごせる時間は正味1時間半。本当はお気に入りのラーメン屋にも連れて行きたかった。でも、車を出すための人員配置ができませんでした。車椅子の福田さんと一緒に、大好きなコーラとジャムパンを近所のスーパーに買い行き、思う存分食べてもらうのが精一杯でした。
せっかく病院から出られたのに。それでも福田さんは、文句を言いませんでした。昔もそうしていたように、いつも嬉しそうにジャムパンを頬張っていました。
昨年初め、新型コロナが突然やってきました。そして、福田さんの週1回だけの自由な時間は奪われました。グループホームの感染予防対策として、外出を完全に禁じられたのです。福田さんはまたしても、壁のむこう側に閉じ込められてしまいました。「本人のため」「みんなのため」という名目で。
会えなくなって10か月。福田さんは亡くなりました。昨年12月16日、横浜の斎場で荼毘にふされましたが、立ち会ったのはKPちゃんだけでした。病院の人も、施設の人も、来ることはありませんでした。
半ば意地で退院させた結果がこれか。KPちゃんは、ただただ虚しい気持ちでいっぱいでした。結局、病院だろうが施設だろうが、管理され続けることに変わりはなかった。むしろ病院に居続けて、よりがんじがらめに管理された方が長生きできたのではないか。でも、自由を奪われながら生き続けることが、本当に幸せなのか。そもそもなぜ、福田さんは病院や施設に閉じ込められねばならなかったのか。なぜ自由に生きることが許されなかったのか。
KPちゃんは、どうすればよかったのだろう。まだ答えが見つかりません。
ズルズル、ズルズル。
ズルズル、ズルズル。
福田さんが大好きだったラーメンと半チャーハンセット。退院後、一度も食べさせてあげられませんでした。後悔の気持ちをかみしめながら、KPちゃんはラーメンをすするのでした。
「涙のわけ」、わかっていただけましたでしょうか。
今回はちょっとしんみりと。
それではまた、ケイピー!!
